首里城大龍柱の本来の向きと「寸法記」イラストの検討 -相対説はなぜ根拠イラストを誤読したのか-

書誌事項

タイトル別名
  • A Study on the True Orientation of Shuri Castleʼs Dairyuchu, or Dragon Pillars, and the Sunpouki Drawings -Why the Face-to-Face Theory Misinterprets the Evidence Drawings-
  • シュ リジョウ ダイリュウ チュウ ノ ホンライ ノ ムキ ト 「 スンポウキ 」 イラスト ノ ケントウ : ソウタイセツ ワ ナゼ コンキョ イラスト オ ゴドク シタ ノ カ

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抄録

本稿では、首里城(沖縄県那覇市)の正殿正面石階段上り口両側にたっていた大龍柱の本来の向きについて検討している。戦後復元された大龍柱は2019年の火災で損傷したため、今回あらためて復元設置されることになった。この令和復元でも、向きは「暫定」とされながらも相対とする方針が決められている。しかし、琉球国末期の1877年、大龍柱は正面向きだった。本稿では相対説が根拠資料を誤読していることを示し、大龍柱の本来の向きは正面であることを確認した。 現在、首里城と呼ばれている琉球国時代の王城・御城は1879(明治12)年、「琉球処分」で日本政府に接収された。接収後は1945(昭和20)年の沖縄戦で、日米両軍の戦闘によって壊滅的に破壊された。戦後は琉球大学に利用された後、沖縄の日本「復帰」20年を記念し、1992年に正殿などから復元公開された(平成復元)。復元が全域で完成したのは2019年だった。しかし同年10月31日未明、正殿から出火し関連9施設が焼失している。 平成復元で大龍柱は、相対向きで設置されていた。この相対向き復元には、本来の姿は正面向きだと当初から強い異論が出されていた。相対向きの根拠は「百浦添御殿普請付御絵図并御材木寸法記」(1768年、沖縄県立芸術大学蔵、「寸法記」)と尚家文書「百浦添御普請絵図帳」(1846年、那覇市蔵、「御普請絵図帳」)で大龍柱が相対向きに描かれたイラストだった。令和の復元でも、「寸法記」などが根拠とされている。しかし、2019年の首里城火災後に確認されたルヴェルトガ写真(1877年撮影)で、琉球国末期には正面向きだったことが確定した。これに対し、令和復元の在り方を検討する国の「首里城復元に向けた技術検討委員会(委員長・高良倉吉)」は2021年12月、令和復元でも「暫定」としながら相対向きとする方針を発表した。 琉球国末期の1877年、大龍柱の向きは正面だった。そのため「寸法記(1768年)」と「御普請絵図帳(1846年)」のイラストを相対向きの根拠とする相対説は、1846年から1877年までの間で、正面への変更の事実がなければ成立しない。そして、その間の向き変更の事実は確認されていない。向き変更が存在しないなら、「寸法記」イラストから相対向きを読み取った相対説の理解は誤りとなる。本稿では、その前提を踏まえつつあらためて、大龍柱相対向きの根拠「寸法記」イラストについて検討した。 相対説は「寸法記」イラストが大龍柱の向きの実態を正しく描いていると主張してきた。しかし、「寸法記」イラスト24点を分析すれば、オンスケールでないだけでなく、それぞれの目的に応じて作成されている。相対説の根拠イラスト2点は、当時の大龍柱を実測しそのデータを基にしたものではない。大龍柱は計測・縮尺に基づかない「絵」である。一定の計測と縮尺などに基づかない「絵」が、実際の形態を明らかにする決定的根拠にはならない。本稿ではイラストが、大龍柱の形状を正確に記録することを目的にしていないことを確認した。 「寸法記」イラストは、大龍柱が1768年に相対向きだったことを示す根拠にはならない。つまり、「寸法記」イラストに描かれた大龍柱の実際の姿は1768年も正面向きだった。それ故に大龍柱は1877年に正面向きでルヴェルトガ写真におさまったのである。

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