国民学校放送発足時の学校教育に対する位置づけの検討

書誌事項

タイトル別名
  • Discourse analysis on early wartime ‘National School Broadcasting’
  • ― Focus on Nippon Hoso Kyokai, Ministry of Education, and teachers as listeners ―
  • ―番組制作者,文部省側,聴取者としての教師の言説から―

抄録

<p> 1935年から全国放送がはじまったラジオの「学校放送」は1941年4月,国民学校制度の施行で学校教育が本格的な戦時体制に移行すると「国民学校放送」と名称が変わり,このとき文部省から正規教材の認可を受けた.放送開始から認可まで6年が経過した背景には,教権を総括する文部省の権威主義的な気風があり,それが教育への放送事業の介入をはばんでいた点が指摘されている.正規教材としての認可後,その気風に変化は生じたのか.本稿はこの点をふくめ国民学校発足当時の運営状況をあきらかにすることを課題に,関係者の言説から国民学校教育に対する学校放送の位置づけをさぐる.対象としたのは,(1)番組を制作した日本放送協会,(2)番組制作の指導・検閲にあたった文部省とブレーン,(3)番組を授業利用した教師の三者である.史料には,全国の教師向け広報誌『学校放送研究』をおもに用いた.記事の分析からは,ラジオの特徴をいかし皇国民錬成という国家目的への貢献に積極的な放送協会の姿勢,放送教育の特徴や可能性を模索しながら放送協会を指導する文部省とブレーンたちの姿勢がみえてきた.だが,文部省の教権護持とよばれた権威主義的傾向は退潮せず,連続していた様子がうかがえた.教師たちについては新しい学習方法がもたらす効果,児童の家庭への広がりなどに対する期待とともに,聴取環境を整えながら児童を放送に集中させようと励む姿勢が象徴的だった.三者は放送教育による皇国民錬成という目的で結節していたが一丸とはいいがたく,課題や取り組みは三様の状況を呈していた.</p>

収録刊行物

詳細情報 詳細情報について

問題の指摘

ページトップへ