二〇世紀初頭北米におけるインド人移民入国拒否問題と寄港地マニラ

DOI

書誌事項

タイトル別名
  • Denial of Indian immigrants entry to North America during the early 20th century, and Manila as a port of call

抄録

本稿は、二〇世紀初頭に太平洋航路上を北米方面に進んだインド人移民が繰り返し直面することになった入国拒否措置と、それに対するインド人移民の抗議活動の展開について、カナダ、合衆国本土、フィリピンの全体を視野に入れながら解明を試みた。<br> インド人移民たちは、まずカナダで、次いで合衆国本土で、さらに合衆国領フィリピン経由での合衆国本土渡航に関して、法文上では必ずしも自分たちに対して門戸が閉ざされているわけではないのにもかかわらず、実際には高い確率で入国拒否にあうという事態に直面した。こうした状況は、英米両国が掲げた理念や法と移民管理の各現場における実態との差異によって引き起こされていた。他方、インド人移民たちは入国許可に関する判断が各現場での法の運用に左右されることに機会を見出して、カナダや合衆国本土で入国を拒否された後にも不服を申し立て、入国拒否措置を撤回させることがあった。マニラ経由での合衆国本土上陸経路も、インド人移民たちが入国拒否後の再審査要請を経て入国許可の先例を作ったものであった。<br> マニラ経由での合衆国本土上陸さえもが阻まれるようになると、カナダでのインド人入国拒否問題について抗議経験のある政治運動家G・D・クマールがマニラのインド人移民に合流した。彼らは在マニラ・インド人協会を設立して、イギリス臣民としてインド政庁やイギリス政府に保護を求めながら合衆国本土への移動権を主張した。しかしながら、イギリス帝国当局による対策は講じられなかった。こうしたなかで、彼らは汽船「駒形丸」に乗船し、インド人のイギリス帝国臣民としての権利を強調しつつカナダ入国を試みたが、最終的に入国を許されなかった。マニラのインド人移民たちは、北米での入国拒否問題に抗議する過程で自分たちの権利がイギリス帝国臣民として尊重されないことを繰り返し経験しており、そのことは彼らと反英運動との接近を促す要因となった。<br>

収録刊行物

  • 史学雑誌

    史学雑誌 132 (3), 29-53, 2023

    公益財団法人 史学会

詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390299528379867008
  • DOI
    10.24471/shigaku.132.3_29
  • ISSN
    24242616
    00182478
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

問題の指摘

ページトップへ