名勝としての妙義山のイメージの生産と流通

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  • Production and circulation of the image of Mt. Myogi as a place of scenic beauty in the 1900s-1920s

抄録

<p>本報告は,風景写真を印刷した絵はがきを手がかりに,近代における観光名所のイメージがどのように生産され,流通したのかを,妙義山を事例として考察するものである。 絵はがきの発行は,日本では1900(明治 33)年 10 ⽉の私製葉書の許可に始まり,日露戦争(1904〜1905年)にかかわる記念絵はがきが人気を集めて爆発的なブームを迎えたことが知られている。『風俗画報』318号(1905年6月),320号(1905年7月)にも「絵葉書の流行」に関する記事が掲載されている。佐藤健二は,絵はがき解読のための課題として「モノとしての絵はがきの生産--流通--消費の仕組みを,その社会のなかで細かく描いてみる研究が必要になる。どのように作られ,だれによって売られ,だれが買い,そしてどんなふうに使われているかのモノグラフである」と述べている(佐藤2018: 147)。絵はがきには,記念絵はがき,美人絵はがき,事件絵はがきなどの多くの種類があるが,風景写真を印刷した名所絵はがきはその中でも主要な位置を占めていた。名所絵はがきを比較し,歴史的景観の変遷を読み解く試みはさまざまな成果を生み出してきた(関戸2010)。一方で,佐藤が課題としたモノグラフの実践は,資料の限界もあってわずかしかみられない。事例とする妙義山は,群馬県西部に位置し,大分県の耶馬溪,香川県の寒霞渓とともに三大奇勝の一つに数えられ,1925年に国の名勝の指定を受けた。独特の形をした荒々しい岩峰が連なり,多くの奇石や石門がみられ,山水画を思わせる風景で知られてきた。それゆえ文学作品や絵画に描かれ,豊富な作品が残されている(関戸2022)。妙義山の山域は白雲山,金洞こんどう山,金鶏きんけい山の三つからなり,白雲山麓には妙義神社,金洞山麓には中之嶽神社が鎮座する。1885年の信越本線・松井田駅開業以降,登山道の整備が進み,1910年代には金洞山の石門と奇岩をめぐるルートに多くの登山客が訪れるようになっていた(図1)。金洞山の西部に中之嶽神社と御神体である朝日岩(轟岩),東部に四つの石門がある。石門一帯は金洞舎の柴垣氏の私有地であり,1954年に30haの土地が群馬県に寄贈され,県立妙義公園が開設されたという背景をもつ。妙義山の絵はがきの発行・販売の中核を担ったのは,妙義神社門前の旅館と金洞山一本杉に位置する休憩所・金洞舎と中之嶽神社社務所であった。妙義神社社務所については,境内の建物を中心として絵はがきを発行しているほか,1907年以降,複数回にわたって石門の写真も掲載した案内書を出版している。松井田駅から来た客は,妙義神社門前で登山案内人を雇って,金洞山に向かうのが一般的であった。1911年には,実業之日本社の記者一行が妙義山を訪れている。事前に石門一帯は個人有で写真撮影が難しいと知らされ,そのことを金洞舎の主人に尋ねると,「山下では宿屋もはがきも総て独占しやうとしている。それでは共同して山を発達させることは出来ぬ。制限などしたくはないが,余りひどいから,つい言ひたくなる」と聞き,「山の上で売つてゐるのを売つてゐないと偽つて(略)山の持主の売つてゐるのを複写した汚い絵ハガキを売りつけたりする」といった行為に不快感を示している(記者談話倶楽部1911.「妙義登山鼻競べ」実業之日本14(25): 76-79)。このように両者には対抗関係がみられた。金洞舎の絵はがきの袋には印刷所を記載しているものがあり,東京の光村製版印刷所,和歌山の大正写真工芸所といった業者名を見出せる。妙義山において,どのような風景が写真に撮られ,名付けられて,絵はがきとして販売されていたのか,登山客がどのような経験をしていたのかなどの具体的な様相については,当日報告する。</p>

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390299859706292992
  • DOI
    10.14866/ajg.2024s.0_258
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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