<研究論文>「する」と「なる」の無常観 : 『クルアーン』から読み解くイスラーム教における無常の在り方

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タイトル別名
  • <Research Article>Impermanence Based on ‘suru’(doing) versus ‘naru’(becoming) : The Concept of Impermanence in Islam as Read through the Quran

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説明

本稿は『クルアーン』の記述を手掛かりにイスラーム教における「無常」の在り方を、仏教を中心とした日本の無常観との比較を通じて考察したものである。無常についての論究は時間についての論究でもあることから、まずイスラーム教における神による時間の超越の在り方、そして「神の時間」と「人間の時間」の相違を明らかにした上で、人間時間の開始(楽園からの追放等)について述べる。さらに、イスラーム教で強調される神の唯一性という特徴がいかに永遠性という性質を必要としているか、そして神の被造物である人間にあってもこの性質がいかに受け継がれているのかについても考察する。次に、イスラーム教の時間・永遠性に対する考え方を踏まえた上で、この宗教における「創造」の捉え方にも注目し、それはいかに日本で言う自然の「成り行き」と対立しているのかを検証する。そこで明らかになるのは、日本の無常観が受動的な「なる」の原理に基づいて成立しているのに対して、イスラーム教の無常観は、  ①神を主体とした能動的な「する」の無常観である、  ②無常は現世に限定されるがゆえに「有限性」を持つ、  ③現世の無常は単独性を持たず、来世の「常住」と一対になっている、  ④現世の無常は「輪廻」に転ずることなく、来世の常住に繋がる、  ⑤現世の無常は神の意志・計画の一部に含まれるため、来世の常住に繋がることで完結される、 ということである。イスラーム教における無常の諸相が明らかにされることで、この宗教において考えられる四つの時間類型、つまり、ア)直線上における「神の存在」のように始めなく終わりもない時間、イ)「人間の存在」・「来世」のように始めがあり終わりのない時間、ウ)「現世」のように始めも終わりもある時間、エ)現世が続く限り「日夜」のように円周上を循環する時間、の諸相も明らかになる。何より、「する」と「なる」の無常観を比較する過程で特に目立つのはイスラーム教の「復活」と仏教の「輪廻転生」の対照性であるが、本稿で詳しく検証するように、これらの概念の対立も結局、時間の捉え方の違いによるものである。

収録刊行物

  • 日本研究

    日本研究 69 7-47, 2024-10-10

    国際日本文化研究センター

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