『大日経』における転法輪について

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タイトル別名
  • For Whom the Wheel Rolls ; the Preaching in the Mahāvairocanābhisam ̇ bodhi-tantra
  • 『 ダイニチキョウ 』 ニ オケル テンホウリン ニ ツイテ

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抄録

    仏教成立時、古代インドの思想界は百家争鳴の状況であった。当時、バラモンを頂点とするヴェーダの宗教が権威的な学問勢力を保ちつつ、六派哲学をはじめ、さまざまな宗教が存在した。釈尊が悟った法は、他の諸宗教の主張とは異なる、まったく独自な教えであったが、当初、釈尊は自らが悟った真理を人びとに説くことを躊躇したとされる。梵天の勧請を受けて、人びとの状況を観察し、初めて説法を決意したと仏伝は告げるが、何ゆえに転法輪に際して梵天勧請という設定を必要としたものであろうか。説法には教化者と被教化者とがいる。教化に際しては、被教化者の動態の方にさまざまな問題があるがゆえに、教化のレベルと条件を設定する必要がある。梵天勧請という挿話は、被教化者を教化に向けて対象化させ、自ら教化を要請するための設定を、神話として示したものであろう。仏の教えは、本来は万人にとっての救いであるはずだが、その教えはそもそもの最初の段階から、万人に対して説かれたものではなく、教化されるべき対象を選んでいる。すなわち転法輪の対象には、種々の段階と条件がある。<br>  仏教成立後、仏説に対する異説・反論は仏教思想の内外周辺につねに存在してきた。仏教のナラティブは、基本的に外部を志向しているといってよい。外教の諸見解を網羅的に紹介することを目的とした論書『異部宗輪論』などは、当時の仏教者が基本的に対論者を念頭に置きつつ、異論を反照として自説の正統性を立論しようとしていたことを窺うことができる。こうした対論者の存在は、聖典において明示されていないけれども、つねに経論の制作者たちの念頭にあったものと思われる。話法には、自説の立場、語り手の位置へのこだわりがあるが、それは同時に他説の立場、聞き手の位置を明確にさせ、ストーリーの輪郭を浮き彫りにしてくれる。ときに仏教のテクストは、仏教思想内外の異説の蒐集と反論に終始しているようにさえ見えることがあるが、基本的に聖典の話法は、異説の提示によって自説の立場を明らかにしようとする手法をとるものなのである。そしてその異説・対論の内容は時代の変遷とともに少しずつ変わっていく。<br>  『大日経』自らが主張する自己の立場は一貫として大乗仏教である。諸大乗経論は有部・阿毘達磨の教説を前提として成立しているが、大乗であるかぎり、声聞・縁覚の批判、阿毘達磨教学との相克を前提としている。そしてもちろん、仏教内の諸思想のみならず、外教の学説も提示される。たとえば『大日経』「住心品」では、さまざまなアートマン学説や外道の見解が挙げられている。ここでは『大日経』がその法輪を、いったい誰に向けて、どのような内容の教えを説いているのか、転法輪の対象と内容の諸類型を考察してみたい。

収録刊行物

  • 智山学報

    智山学報 65 (0), 0235-0248, 2016

    智山勧学会

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