喜績織(きせきおり)×(作る人々+使う人々+それをとりまく人々)=生かし生かされる社会に向けて

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  • −ファッションショーを終えて−

抄録

Ⅰ.はじめに まばゆいスポットライト、大勢のお客様、そして万雷の拍手。リハーサルなしのぶっつけ本番、健常者でも尻ごみするほどの舞台で初めてづくしのファッションショーが行われた。 舞台袖ではあれほど緊張していた織り作家達がまるで別人のようにステージで躍動し、会場を沸かせていた。それぞれがまさに自由に思い思いのポーズで。不安な要素は数え上げればきりがなかったが、どこか私には大丈夫と確信めいたものがあった。それは振り返れば昔の遠い記憶と符合するものであった。 Ⅱ.息子が生まれた時代 長男が生まれた1963年頃は、知的障害者は学校で勉強する機会も与えられていなかった。保護することが子にも親にも最良の方法と考えられていた。 人里離れた所に収容施設が点在していた。知的障害者は在宅して家族が面倒を見るか、施設に入所するかの二者択一しか生きてゆく方法が無かった。 Ⅲ.かくされた何か 私には忘れられない出来事が一つある。息子が6歳、小学校1年生になるときのことだった。教育委員会から一通の通知が届いた。その通知は「精神薄弱児のため小学校の入学を猶予する。」という内容の通知であった。それまでもどこの幼稚園も保育園も受け入れてもらえなかった。これで息子が社会から切り捨てられてしまったとの思いが強く、ひどく落胆した。 気力を失いかけたときに大学の付属小学校の一室を借りて養護学校の前身である学級をスタートさせるというニュースを知った。重い障害の子どもも受け入れるということで申込者が大勢いたが、親子面接で11名が入学することになり、息子もその中の1人となった。「自閉的傾向強く、情緒不安定、IQ測定不能」これが学校の診断だった。息子はずっと学校に馴染むことが出来ずにいた。秋の運動会は付属小と一緒に行うことになり、入学早々から少しずつ練習が始まっていた。息子を含め、数名の児童は全く無関心で教室から出て来なかったり、逃げ回ったりという状況であった。 やがて運動会当日を迎え、付属小の1年生が走った後に息子たちの学級の子どもたちの走る番が来た。子どもたちが一生懸命走っているあまりの意外さに、走れたことへの喜びの気持ちが湧くまでに間があったことを今でも覚えている。「どうしてみんなでちゃんと走れたのだろう」「何が息子たちを奮い立たせたのだろう」そのとき、普段の息子たちから読み取ることが出来ない何かがかくされているのではないか、どうしたらその何かを引き出すことができるのだろうと疑問が湧きあがってきた。それ以来その何かを探すために手探りでの模索が始まった。 Ⅳ.さをり織りとの出会い 息子が作業所に通い出して10年ほど経っていた頃のことである。保護者の一人から、障害者が織れる織物の講習会があると誘いを受けた。その当時、障害者ができる仕事は今よりさらに少なく、どの作業所でも仕事探しに苦労していた。簡単にできるのなら仕事になるかもしれないと、軽い気持ちで参加した。不器用な私でも織れそうなので3カ月大宮の教室に通い、織りを習うことにした。息子も一緒にやって欲しいとの願望もあり、織り機を自宅に2台購入した。作業所にも器用な人がいるので教えてみようと考えながら、息子とも一緒に織れたら幸せだと思っていた。 翌年大阪で「さをり織り20周年記念祭」があり、息子と参加することになった。創始者の城先生の記念講演で私は大きな衝撃を受けた。先生のおっしゃるには、人には「体力」「知力」「感力」という3つの力があり、知力体力は個人差がある。感力だけは障害者、健常者の区別なく全員が持って生まれている。健常者は様々なことを習得していく過程で感力が鈍っていく。幸いなことに知的障害者はそういったことが少ないため感力が温存されている。その感力を引き出すことが出来れば優れた才能を発揮するというのだ。そして「芽が出るのを待つ。いじれば壊れる。」とも。 我が身を振り返れば、息子に対して真逆のことをしていた。出来ない所だけが目につき、直そうとやっきになっていた。芽を摘み、壊していたのかと愕然とした。どのようにしたら芽が出るのを待てるのか、先生にお聞きしなければと強く思った。会場から出てくる先生を待ち構え、疑問をぶつけた。「悪い所を見つけて治すのが名医だよ」しかし、「良い所を見つけて伸ばす」これがさをり織りの極意だと教えてくれた。長い間探し求めていたものはこれかもしれないと思った。さらに先生は「感力を引き出す織りを媒体として人育て」をしようとしているのではないかとも思った。先生の理念を私も目指してみたいという思いが強く湧いていた。先生の熱意を全身で感じようと息子を連れて各地で開催される講演会に何度も出席した。 Ⅴ.ファイバーアーティスト カズ・スズキ誕生 息子は先生の講演会では何時間でも静かに聞いてはいるが、織りには全く興味を示さず、織り機に触れようともしなかった。そんな状況が続き、工房をつくろうと活動を始めて4年が経過していた。息子には向いていないのかとあきらめかけたとき「ぼくもおる」と突然彼が言い出した。私は天にも昇る気持ちで息子のために用意してあった織り機を準備した。 息子はものすごい勢いで織り始めた。織るというよりむしろ織り機と格闘しているかのようだった。通常織り機で行う足の踏み替えを彼はしないため、結果的に織り機にセットされている縦糸に糸をひたすら巻き付けている状況となる。しだいにぐるぐる巻きにした横糸の圧力で縦糸が次々に切れていった。 織り物とはとても言える状況ではないと思ったが4年待たされた状況では嬉しさしかなかった。その第一号の作品が、後にデパートに展示され、なんと別荘の壁に飾りたいとお金を払ってでも欲しいという人が現れた。織りたいように織ればよい。出来あがったものを生かす工夫は後からすれば良い。息子から教わったことだ。以来どんな人でも受け入れることが出来た。 Ⅵ.ファッションショー ショー出演のお話を頂いたときに、喜んで引き受けさせて頂いた。「ゆめはパリコレ」とファッションの世界に一石を投じられるような織り作家になることを目指して精進してきたその成果を見て頂く良い機会と捉えたからだ。 まず織り作家の親たちの意識を高める意味合いもあり、知り合いの服飾専門学校の東京でのファッションショーを見に行くことにした。スタイルの良いモデルの卵のような生徒たちが独創的な服を着て颯爽と登場する素晴らしいショーであった。それを見ながら、しかし逆に、私たちにしか出来ないショーをするべきではないかとの思いが私の頭を巡っていった。そして、日常着られる服で長く愛用できるものを作家自身がモデルになって作家自身と作品をアピールしようと決めた。 次にそれぞれの服のデザインや仕立の問題に直面したが、地元の洋裁の先生のアドバイスを頂いて親たちが仕立てる方向に決まった。舞台進行も知り合いのイベント企画の方のアドバイスを頂いたりと多くの方々の支援を受け、手作りで何度も手直しをしながら作り上げていった。 皆それぞれがファッションショーを成功させようという意気込みが当日の結果につながっていったと感じている。そして遠い昔に付属小学校で障害を持った子どもたちが全力で走ったように、いやそれ以上に彼ら織り作家のみんなは素晴らしいパフォーマンスを大舞台で示してくれた。 そして今回のテーマとして挙げさせて頂いた、「喜績織りを通じて障害を持った織り作家も輝き、それを身につける方々、そしてその双方を取り巻く方々も輝くことでお互いを生かし生かされる社会の実現につなげていく」ことの一端がまさに実現した瞬間ではなかったかと感じている。 Ⅶ.親は子に育てられる 健常者の方でも子離れが出来ない方もおられるが、子に障害があるとなおさら親は子離れが出来ずにいる。常に身近にいるために近視眼的な見方をしてしまいがちになる。今回は登場する織り作家それぞれにエスコートをする人をお願いしたが、基本的に親たちではなく、工房の生徒さん方を中心に出演頂いた。親たちには客席から我が子の晴れの舞台を見て頂くことにした。皆の努力が結集した舞台、会場の反応を肌で感じながら、観客として子どもたちを見たときに今までとは違ったたくさんのメッセージを受け取るのではないかとの思いがあった。実際に親たちはファッションショーのあの感動をしっかりと受け止め、彼らのために何をすべきかを考え、動き始めている。城先生の理念はここに生きていると感じている。 喜績織 喜びをつむぐ その生きて来た軌跡 これから起こす奇跡 そして今ここに、もうひとつ意味を加えたい。彼ら一人ひとりがキラキラと輝く貴石である と。 以下に会場の雰囲気を少しでも感じて頂くためにファッションショーの写真を掲載する。掲載に際してはそれぞれご本人および保護者の皆様からのご承諾を頂いている。

収録刊行物

詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390570630078680832
  • NII論文ID
    130008077917
  • DOI
    10.24635/jsmid.39.1_67
  • ISSN
    24337307
    13431439
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用可

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