僖宗期における唐代藩鎮体制の崩壊
書誌事項
- タイトル別名
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- The fanzhen system during the reign of Emperor Xizong and the fall of the Tang Dynasty
- The Huang Chao and Li Keyong Rebellions
- 黄巣の乱と李克用の乱
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説明
一般的に、唐代藩鎮は中央集権支配に反目した負の印象が強い。しかし近年の研究により、唐が軍事・行政・財政等、諸方面に亘って藩鎮に依存していたことが明らかとなった。唐は、藩鎮体制というシステムがあったからこそ、安史の乱後も存続することが出来たと言っても過言ではない。ただし、朝廷と共存関係にあった唐代藩鎮は、僖宗(きそう)期の黄巣(こうそう)の乱を境に変質していったとされる。では、唐代藩鎮体制は具体的にどのような過程を辿って破綻に至ったのだろうか。本稿ではこの点を解明すべく、僖宗期の軍事政策に如何なる過失があったのかを分析し、唐滅亡と唐代藩鎮体制との関連を考察した。<br> 黄巣の乱が勃発した際、朝廷は、乱に遭遇した現地の節度使に対応させるという基本戦略を採用した。しかし、現地兵は実は賊と表裏一体であったため、この戦略は有効ではなかった。そしてより重要な問題は、黄巣の乱前半期、本来唐の軍事力の根幹であったはずの遊牧勢力が、ほぼ全く利用されなかったことである。この原因は、黄巣の乱と同時期に代北で起こった李(り)克用(こくよう)の乱であった。黄巣の乱の淵源地と李克用の乱の淵源地とは、藩鎮体制においてはいずれも唐を守るべき戦力が配備されていた地域だった。しかし僖宗期には、その両方の軍事力が利用不能となったのである。そのため朝廷は有効な対策を取れず、二つの乱は相互に連動しながら拡大していった。以上のような藩鎮体制の軍事的破綻が、唐朝の解体に繋がったと考えられる。<br> 従来、唐滅亡の要因は専ら黄巣の乱にあるとされ、李克用に関してはそれを平定した功績が強調されてきた。しかし、唐が滅んだのはむしろ、黄河の南北で発生した二つの乱の相互作用によると見做すべきだろう。このような見方は、ひいては唐滅亡の歴史的意義を、唐内地のみならずより広域的な視野で位置づけることにも繋がる。
収録刊行物
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- 史学雑誌
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史学雑誌 129 (9), 1-35, 2020
公益財団法人 史学会
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詳細情報 詳細情報について
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- CRID
- 1390570930252303104
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- NII論文ID
- 130008090472
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- ISSN
- 24242616
- 00182478
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- 本文言語コード
- ja
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- データソース種別
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- JaLC
- CiNii Articles
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- 抄録ライセンスフラグ
- 使用不可