道徳哲学と民族誌の「もう1つ」の交わり方

書誌事項

タイトル別名
  • Enriching the Intersection of Ethnography and Moral Philosophy
  • 道徳哲学と民族誌の「もう1つ」の交わり方 : きれいな分析を拒む現実に留まること/逸れること
  • ドウトク テツガク ト ミンゾクシ ノ 「 モウ 1ツ 」 ノ マジワリ カタ : キレイナ ブンセキ オ コバム ゲンジツ ニ トマル コト/ソレル コト
  • How We Attend to / Deflect from Other’s Reality
  • きれいな分析を拒む現実に留まること/逸れること

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抄録

<p>人類学の倫理的転回と評される潮流では、道徳哲学(moral philosophy)の議論を取り入れつつ、反省性や判断など、主体の意識的な経験を捉えることに重きが置かれてきた。主体の行為や決断は、その経験の外部の要因に帰するものとしてではなく、少なくとも部分的には、意図やある種の実践知(実践の現場で適切な判断を下すことができる能力)の働きと考えることができる――倫理の人類学の名の下に挙げられる多くの著作によれば、このような想定が、私たちが出会う人びとの関心事や行為の価値、経験の機微を捉える語彙を豊かにする。このように倫理の人類学は、社会理論における「主体の死」、さらには人類学内部の人間中心主義批判を経てなお、責任や自由、創造性などの事柄について思考する意義と方途を模索しているといえる。</p><p>しかし、道徳哲学の知見を取り入れながら人類学者が議論してきたのは、ある状況やモラル・ジレンマに対して〈行為する〉モメントを捉えるための概念だけではない。モラル・ジレンマのただ中に置かれた私たちの日常に留まろうとする日常言語学派、およびその影響を受けた「日常倫理」論者のなかには、現実に圧倒される情動的な経験に光をあて、これを受けとめる言語や態度、その限界などを検討するものが散見される。明白でわかりやすい道徳的・論証的言明の影にひそんでしまう、捉えどころのない人びとの経験に迫ろうとする道徳哲学にならうことで、民族誌にはいかなる深みが生まれるだろうか。本稿では「主体の死」後へと立ち向かう倫理の人類学にかぎられない、道徳哲学と民族誌のもう1つの交わり方を探るものである。</p>

収録刊行物

  • 文化人類学

    文化人類学 86 (2), 250-268, 2021-09-30

    日本文化人類学会

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