<研究ノート>満洲国における北村謙次郎の創作 : 「春聯」を中心に

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タイトル別名
  • Shunren (Chun Lian) and Kitamura Kenjiro in Manchukuo
  • マンシュウコク ニ オケル キタムラケンジロウ ノ ソウサク : 「 シュン聯 」 オ チュウシン ニ

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抄録

北村謙次郎(一九〇四~一九八二年)は、東京に生まれ、幼少期は関東州の大連で過ごした。一九二三年、進学のため日本に戻り、それから十数年ほど東京で近代文化の諸相を受容しつつ、昭和初頭、日本文壇にデビューした。『作品』、『青い花』、『日本浪曼派』など様々な雑誌に寄稿し、赤松月船、木山捷平、太宰治などの詩人や作家たちとの付き合いを通して、自らの文学の方向を模索し続けた。一九三七年、北村は満洲国の首都新京に移住し、文芸綜合雑誌『満洲浪曼』を創刊したり、多方面の雑誌に旺盛に執筆したりして、数多くの文学作品を残した。

本稿では、北村謙次郎の在満期の唯一の長編小説「春聯」を取り上げ、その成立の経緯を辿りながら、北村謙次郎の在満期の創作上の特質と、彼の満洲国との関わりについて論じる。

「春聯」において、北村謙次郎は、日本国内で育んできたロマンチシズム(ことに「日本浪曼派」との関わり)と、大陸的な風土とを結合して、自ら提唱する「大きなロマン」という創作理念の実現を図ったが、それは十分に成功せず、作品全体として「色調が破れる」(川端康成の表現)といったイメージを読者にもたらしている。その「色調」の破綻のうちに、積極的に満洲国の理念と一体化できなかった北村の思想を垣間見ることができる。満洲国の傀儡体制に同調しながら、その実態については多少とも批判的であったし、不満でもあった。ある程度の距離を置いて満洲国を観察しつつ、文学者としての批評の眼をもって創作に取り組もうとした北村であった。

収録刊行物

  • 日本研究

    日本研究 48 179-199, 2013-09-30

    国際日本文化研究センター

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