朝鮮体育協会と峰岸昌太郎

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  • Chosen Sports Association and Shotaro Minegishi
  • チョウセン タイイク キョウカイ ト ミネギシ ショウタロウ

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抄録

朝鮮人マラソンオリンピック選手を育て学生たちに慕われ尊敬された峰岸昌太郎は1931年5月8日養正高等普通学校を突如退職することになる。退職後峰岸は,朝鮮体育協会という日本人体育団体で陸上競技部監督として指導する。同年9月には同協会主事に選任される。そして,約1年3ヶ月という短期間で再び「主事解職」という事態に遭遇することになる。本稿では,朝鮮体協主事選任の経緯とその後の峰岸の朝鮮人選手に対する指導状況を確認しながら,朝鮮体協時代における峰岸の活動の特徴を明らかにする。また,突然の「解職」にいたる経緯及びその背景について検討する。その際に,朝鮮体協の組織体質と総督府との関わりに言及し,同協会が抱えていた課題を明らかにする。最後に,まとめとして養正高普教師時代から体育協会主事までの朝鮮における峰岸昌太郎の思想と行動について簡単な整理を試みる。

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