「精神構造」論としての天皇制 : 赤坂憲雄の天皇制論の整理・検証を通して

Bibliographic Information

Other Title
  • 「 セイシン コウゾウ 」 ロン ト シテ ノ テンノウセイ : アカサカケンユウ ノ テンノウセイロン ノ セイリ ・ ケンショウ オ トオシテ
  • Studies on Tenno System from the viewpoint of the mentality of Japanese : Inspecting Norio Akasaka’s theory on Tenno System

Search this article

Abstract

type:Article

赤坂憲雄の天皇制論の整理・検証を通して、日本人の精神構造にかかわる天皇制支配の本質を論じた。赤坂は天皇制の本質を、①天皇制における歴史的な唯一の不変項は、天皇が世襲的な祭儀をつうじて、つねに不可視の呪術宗教的な威力の源泉でありえたこと(=宗教としての天皇制)、②権威の源泉としての天皇と政治権力を掌握した集団・勢力との共同支配が、その形態は時代によって変化しながらも存続してきたこと(=二重王権としての天皇制)の二つにあるとした。さらに赤坂は歴史的には非農業民が支配共同体を構成し、③ 支配共同体の非農業民が被支配者大衆である農業民の稲作のコスモロジーを巧妙に収奪してきた歴史が天皇制支配の本態である、とした。赤坂は被支配者大衆(国民・民衆)が下から天皇(制)を支えきたとする土俗天皇制論の欺瞞や矛盾を暴き出し、天皇の非作為性(自然性)・不執政を支配共同体の作為性・政治性から切り離して論じることの本質的な問題を明確にした。彼の天皇制論は正鵠を射たものではあるが、その方法論は人間の具体的な行為や体験、コミュニケーションから支配を読み解いたものでないために、非農業民の支配共同体のコスモロジーにおける作為性と非作為性(無為・自然性)とはどのような人々の経験相にかかわるのか、また支配の正当性として社会的政治的に機能してきた天皇の非作為性(無為・自然性)の表象は人々のどのような日常経験に根差して作用するのか皆目分からない。赤坂は天皇制支配を専ら呪術宗教的な儀式や儀礼の問題として理解するので、支配が個々の人間にどんなからくりで作用するのかが見えて来ず議論が壁に突き当たってしまう。ヴェーバーの行為論的社会学は人々の具体的な行為や経験、コミュニケーションの有り様から支配の問題を読み解こうとしている。ヴェーバー支配論にかかわるこれまでの筆者の考察を踏まえれば、非農業民の支配共同体のコスモロジーは異界・超越界のカミワザ(=カミ)にかかわる呪術(ワザ)や道具使用にかかわる技術(わざ)と関係することが分かる。道具使用には二つの異質な経験相があり、一つは技術身体知の構築化・合理化に関連した試行錯誤学習における行為の作為性の側面である。これは心理学的には防衛機制や超自我とかかわり、支配論では「支配の正当化Legitimitation,Legimieren」にかかわってくる。もう一つは技術身体知の変革・修正にかかわる洞察学習の非作為性・自然性の経験相である。これは心理学的には自己存在の身体的実感(自我同一性 )や超自我の修正や規範意識の内発的内在化にかかわり、支配論では「支配の正当性Legitimität」にかかわっている。これら二つの経験相は相反する内容でありながら力動的には不可分に結び付いており、これこそヴェーバーが理論化できなかった支配の[正当性/正当化]という原理的な二相性である。非農業民の「ワザ・わざ」における洞察学習の経験相(=体験の非作為性・自然性・内発性=支配の正当性)はきわめて普遍性が高い。日本の場合、それが日本的小集団における相互依存的な対人関係の様式として社会文化的にとらえ直され重ね合わされて「内的体験の領域の素直(素直A)/対人関係の領域の素直(素直B)」という『「すなお」コンプレックス』を構成している。「内的体験の領域の素直(素直A)」は道具使用の洞察学習のみならず、依存的な合理化・構築化の変革にもかかわる経験相であり、一方、「対人関係の領域の素直(素直B)」はそれがいかに融合的であっても相互依存的な合理化構築化の現象である。こうした形で「内的体験の領域の素直(素直A)」を媒介にして非農業的な「ワザ・わざ」の作為性・構築化と稲作生産にかかわる農村小集団の相互依存的な対人関係の合理化の様式が重ね合わされ、非農業民のワザ・わざのコスモロジーは農業民のマツリ(稲の死と再生・豊饒)のコスモロジーに巧妙に滑り込み、両者は継ぎ目なく接合される。つまり、天皇制支配の原初的形態である『「すなお」コンプレックス(素直A/素直B)』は支配の二相性〔支配の正当性/支配の正当化〕の日本的な表現であると言える。「すなお」という複合的な体験は日本的な相互依存的な行動様式にかかわるのみならず、個の「自立」にも不可欠な普遍的経験相を同時に包含しているために、「すなお」を全否定することができず、日本人は「すなお」をめぐって深いジレンマを経験する。

Journal

  • 現代福祉研究

    現代福祉研究 16 69-118, 2016-03-01

    法政大学現代福祉学部現代福祉研究編集委員会

Details 詳細情報について

Report a problem

Back to top