F.G.シュルツェ農学論 : シュルツェによる"リービッヒ農耕理論"の方法論的批判の検討を通して

書誌事項

タイトル別名
  • F. G. Schulze’s Opinion about Science of Agriculture-through the Examination of Liebig’s Agricultural Theory That Schulze Criticised Methodologically
  • F . G . シュルツェ ノウガクロン シュルツェ ニ ヨル リービッヒ ノ

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抄録

従来,官房学(Kameralwissenschaft)の1部分にすぎなかった農学(Landwirthschaftwissenschaft)をアルブレヒト・ダニエル・フォン・テーアは独立科学として体系化した-この意味で,テーアは近代農学の始祖と呼ばれる-のであるが,ユストゥス・フォン・リービッヒの出現以来,農学は応用自然科学(angewandt Naturwissenschaft)と位置づけられ,化学,生理学等の応用学とみなされるにいたった.テーア農学の体系は一般農学(allgemeine Landwirthschaftwissenschaft:農業経営学,評価学および簿記学)と,特殊農学(specielle Landwirthschaftwissenschaft:耕種・畜産の学)とから成るが,灰学説あるいは鉱物学説(Aschentheorie oder Mineralischentheorie)を主唱するリービッヒの出現以来,一般農学が等閑視され,特殊農学,しかも単なる応用自然科学としての特殊農学が著しく重要視され,農学の主流を占めるにいたった.このため,19世紀中葉が"農業経済学の停滞"(the stagnation of agricultural economics)期(あるいはリービッヒの時代)と呼ばれるのである(Nou,1967:大槻訳,1969).このような状態の中で,フリードリッヒ・ゴットロープ・シュルツェが登場する.シュルツェは"農学を科学的に基礎づけそしてその国民経済学との関係を説明せんがためにテーアに次いで最も大いなる功績をあげた"(山岡訳,1938,117頁),"リービッヒに対抗するためには,農学というものを極めて国民経済学的なものに衣がえをし,農業経済学を狭い私経済の問題とはしないでむしろ大きく国家の立場から農学とは何ぞや,というふうな体系に仕上げた"(金沢,1984,12頁)と評されている.シュルツェは農学を国民経済学によって基礎づけると同時に,農学は単なる応用自然科学ではなく,独自の対象と方法とを有する学であることを論証しようとしたのであり,このことはリービッヒの出現以来,等閑に付されていた一般農学の復権-その復権は19世紀末に彼の弟子達,ビルンバウム・ポール等によって行われ,いわゆるテーア・ルネッサンスと呼ばれる(相川,1983)-の端緒をなしたものといえよう.しかし,本論では,ドイツ農業経済学史におけるシュルツェの位置・意義などを直接の問題とするのではなく-この点に関しては相川1985,相川訳1986を参照されたい-,シュルツェがリービッヒ農耕理論(とりわけ鉱物理論)を批判した方法,ならびに,シュルツェがその批判を通して明らかにしようとした彼自身の農学論を明確にしたい.このばあい,主要資料は"F. G. Schulze, Thaer oder Liebig?-Versuch einer wisenschaftlichen Prüfung der Ackerbautheorie des Herren Freiherrn von Liebig, besonders dessen Mineraldünger betreffend, Jena, 1846"である-従来,わが国農業経営学史研究においてシュルツェについてはそれほど論議の的にはなってこなかった.Schulze(1846)についてもほとんど詳細な検討は行なわれず,津谷(1978)において,若干,具体的な記述をみるのみである.Schulze(1846)は,シュルツェによって不定期的分冊として刊行されていた"ドイツ農業ならびに国民経済誌"(Deutsche Blätter für landwirthschaft und Nationalökonomie)第4・5巻に掲載されたものである.Schulze(1846)は8部から構成されているが,本論と直接関係するのは第1部である.第2部から第8部も本書理解のためには重要であるが,第1部理解のための補論にすぎないので,本論では第1部を主として検討の対象にする.そこで,第1部"リービッヒ農耕理論,とくに氏の鉱物肥料に関する科学的検討"を構成する章題目を示すと以下のとおりである.すなわち,第1章.科学研究の種々の方法についての一般所見(Allgemeine Bemerkungen über die verschiedenen Methoden der wissenschaftlichen Forschungen)第2章.自然科学としての農学(Die Landwirthschaftslehre als Naturwissenschaft)第3章.正しい白然科学と誤りの自然科学(Die wahre und die falsche Naturwissenschaft)第4章.正しい化学と誤りの化学(Die wahre und die falsche Chemie)第5章.リービッヒ一般農学体系(Das Liebig'schen Agricultursystem im Allgemeinen)第6章.テーアとリービッヒの肥料理論(Die Thaer'sche und Liebig'sche Düngertheorie)第7章.大気学説者や灰学説者の攻撃に対するいわゆるフムス理論の擁護(Vertheidigung der sogenannten Humustheorie gegen die Angriffe der Lufttheoretiker und Aschentheoretiker)第8章.リービッヒ肥料粉抹の取り扱い(Der Handelmit Liebig'schen Düngerpulver)補遺(ZusäB)である.主に,これらの諸章に依拠して,シュルツェによる"リービッヒ農耕理論"の方法論的批判の検討を通して,シュルツェ農学論に接近したい.なお,Schulze(1846)はリービッヒ"(有機)化学"の第5版までを批判の対象にしている.しかし,リービッヒは1862年に第7版として2巻本の形で-第1巻:植物栄養の化学過程(Der chemische Prozessder Ernahrung der Vegetabilien),第2巻:農耕の自然法則(Die Naturgesetze des Feldbaues)-,新著ともいえる書物を出版した.それは第6版(1846年)の出版以降16年間にわたる諸論争-たとえば,窒素肥料の効用をめぐるローズ・ギルバートとの論争,これらの論争の過程で,彼の理論は証明され,精緻化されたといわれる(椎名,1976)-を踏まえて改訂・増補されたものである.したがって,リービッヒ理論それ自体の検討のためには第7版以降の版を定本として利用せねばならない-この点に関して,椎名(1976)は貴重な業績である.椎名はマルクスに依りつつリービッヒを再評価し,リービッヒは資本主義的農業の消極面をするどく指摘したという.同様に,吉田訳(1986)の訳者解題も重要である-.したがって,第6版までのいわゆる初期の鉱物学説を批判的に検討するSchulze(1846)の意義はリービッヒ理論それ自体の理解にかかわるよりはむしろリービッヒ批判を通じてシュルツェが明らかにしたかったことにより関係する.岩片はSchulze(1846)を紹介してつぎのように述べている,すなわち,"本書はリービッヒの初期の鉱物学説を対象にして,この学説が唱えられるにいたる方法論上の欠陥を指摘し,他方,これと対象されるテーアの腐植学説の真意を解説して,これを擁護した著作である"(岩片,1985,4頁).すなわち,シュルツェがリービッヒ批判を通して明らかにしたい点は農学研究における正しい方法論の重要性であり,そして,それに立脚して構築されたテーアの腐植学説-農耕理論の再評価である.その意味で,Schulze(1846)はリービッヒ時代におけるテーア・ルネッサンスの端緒となった著作とみられるべきであろう.最後に,シュルツェの略歴についてポール(相川訳,1986,18頁)に依拠して述べる.すなわち,"シュルツェ(1795-1860)は,ザクセンの農家の子弟であったが,ブォルタで学校を終えたのちライプチッヒ大字で官房学と自然科学を修めたが,その後は長年実務的農業者としてその尊敬するワイマール大公カール・アウグストの農場で働いた.大公は彼をその仕事ぶりについても高く評価された.1819年シュルツェは,イエナ大学において官房学で教授資格試験に合格し,1821年にこの分野の教授となった.当時大学でやられた官房学の講義は,農業者にたいしてではなく,行政・財務官僚向けに行なわれていたところから,シュルツェは1826年イエナで大学に隣接して自力で,農業者のための独自の農学講座を開設した.これは総合大学における最初の農業者養成の講座であった.それによって,彼は,総合大学は農業者養成のためには適当な場所でなくメークリンのごとき単科大学の農業アカデミーが適当だと主張するテーアと,敵対することになった.シュルツェはこの自分の講座で1860年のその死にいたるまで,実り豊かに活動した"-なお,農学教育者としてシュルツェを評価したものに金沢(1972)がある-.

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