『朝鮮新報』主筆青山好恵の東学農民戦争報道 --1890年代の朝鮮情報流通と居留地メディア--

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タイトル別名
  • Aoyama Yoshie's Chōsen shinpō Reporting on the Donghak Peasant Revolution --Settlement Media and the Circulation of Information on Korea during the 1890s
  • 『 チョウセン シンポウ 』 シュヒツ アオヤマ コウケイ ノ ヒガシガク ノウミン センソウ ホウドウ : 1890ネンダイ ノ チョウセン ジョウホウ リュウツウ ト キョリュウチ メディア

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抄録

本稿は, 朝鮮の仁川居留地で発行された日本語紙『朝鮮新報』主筆であった青山好恵の報道活動に注目することで, 1890年代の日本社会にもたらされた東学農民戦争の姿(特に「東学党」像)を復元し, それが当該期の朝鮮観形成において果たした役割を分析する。愛媛県宇和島の没落士族出身の青山好恵は, 「田舎青年」という自己認識を発条として朝鮮仁川へ渡航し, 『朝鮮新報』に拠って在朝鮮日本人社会の輿論を日本内地へ伝達した。青山の来歴と活動からは, 自由民権期後の政治青年を捉えたナショナリズムと, 日清戦争前後を画期に昂進する日本社会のアジア進出意欲とが接続する一つの典型をみてとることができる。青山は, 1880年代末以降「国粋主義」や「大なる日本」といったかたちで主張されたナショナリズムを底辺から支えた無数の「明治ノ青年」の一人であった。一方, 朝鮮情報を日本国内へと媒介した『朝鮮新報』に代表される居留地メディアは, 「朝鮮浪人」をはじめとする朝鮮在留日本人が抱くアジア地域への投企的欲望を, 日本国内のメディアへと接続するハブ・メディアとしての役割を担っていた。「東学党」は当初, 朝鮮在留日本人からは日本主導による朝鮮改革の受け手として期待され, 「革命党」や「義人」と評価されていたが, 日本軍占領下の朝鮮で実際に甲午改革が開始されると, その評価は秩序を乱す「匪類」「暴徒」へと暗転する。「東学党」像は, 居留地メディアを介した日朝間の情報流路のなかで形成された朝鮮像の顕著な一例であり, 東学農民戦争に対する当初の一見好意的な評価は, 近代日本が大陸国家への道程を踏み出す際の政治的・経済的関心の所在を極めて率直に映しだすものであった。すなわち「東学党」は, 近代日本が何らかのかたちで朝鮮に関与し, その「独立」や「文明化」「改良」を企図するにあたり, その行為を正当化する存在として注目されてきたのである。

収録刊行物

  • 人文學報

    人文學報 111 127-161, 2018-03-30

    京都大學人文科學研究所

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