<論説>伊勢治田銀銅山史の研究

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タイトル別名
  • <Articles>Silver-Copper Mine of Harita 治田 in Ise 伊勢 Country
  • 伊勢治田銀銅山史の研究
  • イセ チデン ギン ドウザンシ ノ ケンキュウ

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抄録

治田鉱山は伊勢国では近世において知られた唯一の銀銅山である。近世初期には産銀を主として繁栄したようだが詳細は不明である。治田郷は天樹院化粧料として一時本多氏領であったが、その前後は幕領であり、寛永七年鉱山支配のため特に山奉行が新町におかれた。治田郷八ケ村中で新町は鉱山開発により形成された集落といえる。しかし寛文初年には鉱山すでに衰え、新町の陣屋も廃され、四日市陣屋の支配になったが、治田郷は吉宗が将軍職を継ぐとそれに従った加納久通の領となる。鉱山は元禄初年再興され間もなく衰え、宝永以来治田郷が鉱山を請負い、稼行人は治田郷を通して領主から稼行許可を受ける形式をとった。そして治田郷の鉱山稼行に対する監督権を拡大もし強化された。このような慣行は諸国鉱山にあまり例をみない。元禄以来は産銅に中心が移るが、特に寛保延享年間は一ケ年一〇万-三〇万斤に達し全国銅山でも上位を占めた。治田郷では鉱山が郷民の経済に深くかかわる関係もあって、他処の稼人退山の間にも郷内有力者がしばしば採掘を試みた。明治維新後、加納氏の一宮藩は藩財政の一助として鉱山開発に望みを托したが、資金不足のため成果をみず、廃藩置県によって放棄を余儀なくされたようである。

収録刊行物

  • 史林

    史林 58 (2), 153-212, 1975-03-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

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