<論説>戦後アメリカ合衆国の中東産油国政策 : 経済的安全保障政策の形成と蹉跌 一九四六〜一九五一

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タイトル別名
  • <Articles>U. S. Policy toward the Middle Eastern Oil-producing States : The Creation and a Setback for the "Economic Security" Policy. 1946-1951
  • 戦後アメリカ合衆国の中東産油国政策--経済的安全保障政策の形成と蹉跌1946~1951
  • センゴ アメリカ ガッシュウコク ノ チュウトウ サンユコク セイサク ケイザ

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抄録

第二次世界大戦後の合衆国政府は、産油国政府の石油収入を増大させることによって、米ソ冷戦状況下における産油国の政治的安定を実現しようとする政策を遂行した。本稿では、このような政策的特徴を、冷戦史家ポラード(R. A. Pollard)が「経済的安全保障政策しと呼んだ合衆国の戦後政策の一環として捉える。 中東産油国に対する経済的安全保障政策は大きな制約を負っていた。同政策の遂行者は石油会社、殊にメジャーズと呼ばれる国済石油資本であった。メジャーズは、合衆国政府の思惑に反して、国際石油産業における自らの独占的地位を確保するとに成功し、産油国に対する経済的安全保障政策の方向に大きな影響を及ぼすことになる。経済的安全保障政策は、強力な私企業の論理による制約を負っていたのである。 しかしながら、経済的安全保障政策の最大の限界は、同政策を創造した合衆国の政策決定者達の思考自体に内在していた。彼らは、産油国政府に巨大な石油収入を「与える」ことで産油国の安定が実現されると考えると同時に、それを無くして産油国の安定は実現され得ないと信じていた。一九五〇年のサウジ・アラビアにおける石油協定は、産油国安定化のための格好のモデルを彼らに提供し、同モデルは多くの産油国において彼らの思惑を実現することになる。しかし、産油国に対する経済的安全保障政策がサウジ・モデルの適用と同値化されたことは、同政策の硬直化をも意味した。石油收入の増大よりも自国資源への支配の回復を要求したイランのナショナリズムに対して、合衆国の政策決定者達はサウジ・モデルの受け入れを迫り、自らが秘めていた「与える者」の傲慢さを露呈していく。イラン石油国有化紛争の膠着化は、経済的安全保障政策の本質的限界象徴するものだったのである。

収録刊行物

  • 史林

    史林 77 (3), 363-393, 1994-05-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

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