<論説>清代外モンゴルのセチェン・ハン部における盟界画定の経緯 : 牧地紛争に関する公文書を手掛かりに

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タイトル別名
  • <Article>The Demarcation Process of the Border of Sečen Qan Ayimaγ in Outer Mongolia during the Qing Period: Based on the Archives of Pasture Conflicts
  • シンダイ ソトモンゴル ノ セチェン ・ ハンブ ニ オケル メイカイ カクテイ ノ ケイイ : ボクチ フンソウ ニ カンスル コウブンショ オ テガカリ ニ

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抄録

本稿ではモンゴル国立中央文書館所蔵の公文書史料を用いて、清代外モンゴルのセチェン・ハン部とトシェート・ハン部とが境を接する盟界が画定された経緯を検討した。その結果、以下の知見が得られた。まず、シレー・ノール会盟が、サイン・ノヤン部の牧地獲得を利しただけに止まらず、セチェン・ハン部の牧地拡張まで誘発してしまったこと、そしてセチェン・ハン部における牧地紛争の隠ぺい工作の結果、セチェン・ハン部が乾隆四六(一七八一)年の盟界画定の対象地域から外されたということである。次いで、西三盟と同様に、乾隆五五(一七九〇)年にラワーンドルジらの王公によって、セチェン・ハン部とトシェート・ハン部との盟界が初めて画定され、両盟間の牧地紛争は収束した。かくして、清代外モンゴル四盟の盟界画定事業は概ねこの乾隆五五年に終了したことが明らかとなった。

収録刊行物

  • 史林

    史林 100 (3), 361-388, 2017-05-31

    史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)

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