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豊臣秀吉による2度の朝鮮出兵(文禄・慶長の役,壬辰倭乱)に際して,朝鮮半島南部の海域で朝鮮水軍を率いて数々の勝利を挙げた李舜臣は韓国及び日本において人気の高い武将である。しかし,彼が海戦の勝利によって「制海権を保持した」とか,「日本軍の補給路を断った」とまで記述されているのは大げさであるように思える。本稿では史料・文献を精査したところ,日本の陸上軍が首都・漢城へ,さらに逃げる朝鮮国王一行を追って平壌へと進撃するのに合わせて日本水軍は海上を進み朝鮮西海岸を北上して,陸軍への補給をするという「水陸併進策」があったと多くの著作で主張されるが,それが真実かどうか,が重要であるようにみえた。李舜臣は一回目の侵攻(文禄の役)で日本水軍を閑山島海戦等で破り,この水陸併進策を挫き,2度目の侵攻(慶長の役)では鳴梁海戦でやはり水陸併進策を挫いたとみなされているようである。本稿ではこの水陸併進策について疑義を呈し,史料・文献を精査して考察を行った。
収録刊行物
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- 環太平洋大学研究紀要 = BULLETIN OF INTERNATIONAL PACIFIC UNIVERSITY
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環太平洋大学研究紀要 = BULLETIN OF INTERNATIONAL PACIFIC UNIVERSITY 20 83-88, 2022-03-31
環太平洋大学
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詳細情報 詳細情報について
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- CRID
- 1390573792568771072
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- NII書誌ID
- AA1230704X
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- ISSN
- 1882479X
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- Web Site
- http://id.nii.ac.jp/1634/00000794/
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- 本文言語コード
- ja
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- データソース種別
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- JaLC
- IRDB
- OpenAIRE