サーンキヤの裏面を照射する――ロンチェンパによる両面鏡比喩解釈――

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タイトル別名
  • Reflecting the Other Side of Sāṃkhya:Klong chen pa on the Two-Sided Mirror Simile
  • Reflecting the Other Side of Samkhya : Klong chen pa on the Two-Sided Mirror Simile

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抄録

<p> 古典サーンキヤ体系においてはプルシャ(puruṣa)とプラクリティ(prakr̥ti)との峻別を金科玉条としつつも,とりわけ享受者としてのプルシャを理窟付けるために,プルシャや統覚(buddhi)を鏡面や水晶に喩えるなど,「映像説」として一括されうる説明がなされてきた.中でも統覚を両面鏡(ubhayamukhadarpaṇa)に喩える映像説は解釈の余地が複数認められる上,現存サーンキヤ文献には見受けられず,専ら他学派文献に登場するという特殊性を帯びている.本稿においては,両面鏡比喩の頻出するチベット撰述学説綱要書(grub mtha’)の中でもニンマ派学匠ロンチェンラプジャン(Klong chen rab ’byams, 1308-1364,「ロンチェンパ」と略記)著Grub mtha’ mdzodGDz)ならびにYid bzhin mdzod ’grelYDzG)を対象としつつ,その用法の異質性を明らかにするとともに,思想的背景にも迫ることとする.</p><p> GDzサーンキヤ・セクションにおいては統覚が両面鏡(me long ngos gnyis pa)に喩えられるが,その外側には対象を映しつつ,内側には「楽・苦・無関心という認知(rig pa)の側面を伴う」とされている.通例「楽・苦・無関心」が統覚を成す三グナ(guṇa)を指すことを考慮すれば,他の学説綱要書に登場する両面鏡比喩とは著しく異なり,この構造にはプルシャの姿がみられない.しかしながら,後続の鏡を用いた享受の記述,および両面鏡と同じ役割を果たす水晶宮(shel gyi khang pa)を用いたYDzGの記述では通例と同じく外側に対象,内側にプルシャを映すとされ,GDzの両面鏡比喩の特異性が浮き彫りとなる.</p><p> この比喩に解明の光を投じるものが,GDz唯識セクションに登場する両面鏡比喩である.そこで両面鏡比喩は自己認識(rang rig, *svasaṃvedana)の文脈の中で登場しているが,GDzの同比喩も構造としては自己認識に類するといえる.この点は,当初の同比喩導入に際してみられた「知は光照および認知(gsal zhing rig pa)を本体とする」という言明が自己認識論証の一環として用いられることからも裏付けられる.ここでさらに考慮すべきは,同じく自己認識を説くシヴァ教再認識派との親和性である.ロンチェンパはサーンキヤのアートマンを記述する際,それを「知」(shes pa)および唯一と評するが,“jñāna” を統覚の属性とし,多数のプルシャを説く古典サーンキヤ体系とはいずれの点も合致しない.これらに加えてYDzGではアートマンが「補助因に応じて状態が楽などとして変異する」とされるが,この記述はプルシャの不変性を強調する古典サーンキヤ体系にはそぐわないばかりか,アートマンに楽・苦・無関心が属するとみなす一元論的トリカ説の発想へと接近しつつある.さらに,「澄明にして輝き出る知」としてのアートマンも,光照機能を純質(sattva)に帰す古典サーンキヤ体系とは対照的である.これらの点を考慮すれば,GDzの同比喩はシャイヴァの教義を借用しつつ再解釈されたサーンキヤ説とも評されよう.以上の点からは,ロンチェンパの時代にはシャイヴァの教義が部分的に混入したサーンキヤ説が流布していた,あるいは「サーンキヤ」の名のもとにシャイヴァ説が語られていた可能性などを想定することが可能であろう.</p>

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