野見宿禰伝承地の形成と顕彰

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  • Formation and Honoring of Nomi-Sukune Tradition Site

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抄録

『日本書紀』は垂仁天皇7 年7 月7 日の記事として、出雲から呼び寄せられた野見宿禰が当麻蹶速と角力をした話を記している。野見宿禰は当麻蹶速の脇骨を蹴折り、腰を踏み折って殺してしまう。蹶速の地を奪い野見宿禰に与えられた。腰折田という。以後、野見宿禰は天皇に仕えたという。 また垂仁天皇32 年7 月6 日の記事として、皇后日葉酢媛命が死去したとき、野見宿禰の進言で、それまでの慣習だった生人を埋めることをやめ、かわりに出雲から土部100 人を呼びよせ、土で人や馬などの形を作り陵墓に立てた。これを埴輪といい、以後、陵墓には埴輪を立てることにした。野見宿禰は土師氏の祖となり、土師氏は土師部を率いて天皇の喪葬に奉仕するようになったという話も記している。野見宿禰は相撲の開祖、殉死を廃して埴輪を創始した者として認識されていくことになる。 現在、こうした野見宿禰にまつわる伝承地が各地に存在し、なかには自治体の地域振興、観光スポットにも利用され、また信仰の対象にされているものもある。それらの伝承地がどのように形成されてきたか、個別伝承地ごとには、自治体史や博物館等の図録、地域史により、ある程度の検討はされてはいるが、その根拠や意義づけは必ずしも明確とはいえない部分もある。各地の伝承地形成を全体として俯瞰する試みも十分ではない。 本稿では、改めて個々の伝承地の形成と顕彰の過程を整理し、どのような人々、どのような歴史的背景が関わっていたのかを考えてみたい。 このことは近年研究が盛んになっている、神話・伝承が現実の地と結びつけられて実体化し、顕彰など諸活動を通じて地域の歴史意識を形成していく問題の一事例にとどまらない。野見宿禰が近代の歴史的展開のなかでどのように位置づけられてきたか、それは近代の相撲の展開とどのようにかかわってきたか、そしてそれは相撲・スポーツと天皇・ナショナリズム・戦争にも関わる問題として、地域社会の歴史と結びつけながら展望することにつながっていくはずである。本稿はそのための基礎作業でもある。

収録刊行物

  • 社会文化論集

    社会文化論集 19 1-20, 2023-03-20

    島根大学法文学部紀要社会文化学科

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