鳥山敏子による差別問題の視座 : 好井裕明『差別原論』の知見を補助線として

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タイトル別名
  • An Essay on the Pedagogical Practice of Toshiko Toriyama and the Question of Discrimination : Using the Findings of Hiroaki Yoshii's "Theory of Discrimination" as a Guide
  • トリヤマ トシコ ニ ヨル サベツ モンダイ ノ シザ : ヨシイ ヒロアキ 『 サベツ ゲンロン 』 ノ チケン オ ホジョセン ト シテ

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説明

本稿では、小学校教師・鳥山敏子による鶏の屠殺と原子力発電所に関する教育実践を検討し、彼女がいかなる視座から差別問題を授業化していたのかということを検討した。また、本稿の論究に際して、社会学者・好井裕明の著作、『差別原論』の知見を援用し、鳥山の議論の整理を試みた。 従来、鳥山の教育実践は、通俗的に倫理・道徳教育の文脈で語られることが多かった。彼女の諸実践は、鶏の屠殺を通して、「いのち」の大切さを学習することを志向していると理解される傾向にある。本稿では、こうした理解とは距離を置き、差別問題という視座から分析を進めた。 鳥山の教育実践のなかでは、鶏の屠殺や原発の立地について、児童や保護者、鳥山自身が差別につながる「エゴ」をかかえていることが顕在化した。彼女は、その「エゴ」を自覚し、相対化する必要を説いた。『差別原論』において、好井は、自分が無意識のうちに「差別してしまう可能性」を「否定すべき私の一部とみなすのではなく」、自分の「肯定しづらい一部なのだと認めざるを得ない」との趣旨を指摘していた。そのうえで、彼は、差別の「可能性」から、「どのような新たな生きる意味を取り出すことができるのだろうか」と問うた。鳥山の教育実践では、個々人の内面に存在する「エゴ」の自覚と相対化が志向されたが、それは、まさに、「肯定しづらい一部」を「認め」、「新たなる生きる意味を取り出す」いとなみだった。

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