語れない人びとのための哀悼の場所

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書誌事項

タイトル別名
  • Places of Mourning for Those Who Hold Back Their Voices
  • Reconstructing Places in Rekuzentakata, a Tsunami-Hit Area of the Great East Japan Disaster, and Geographies (4)
  • 「被災地」陸前高田の場所再構築と地理学(4)

抄録

<p>本発表は,東日本大震災後の陸前高田において(再)構築された哀悼の場所における人びとの実践を,2018年から断続的におこなっている現地調査と文献調査をもとに明らかにすることを通じて,被災者にアプローチする方法論的問題を議論する.本発表の議論は,近年英語圏の地理学で進められている,非表象理論や物質論における言語や表象の再検討(Daya 2019; Medby 2021)にもつながる.</p><p>「被災者」の定型化された語り</p><p>苦難にある人びとの語りはしばしば定型化される。メディアから「被災者」に向けられたインタビューに対する「申し訳ありません。家族も家も無事だったんです」(竹内2016)という回答は,自己を「被災者」でないと規定する人びとが周囲の「被災者」や,「悲惨」な語りを期待するメディアを前にして,自らの経験を語れなかったことを示している.震災後10年が経過してようやく定型化された「被災者」の語りを相対化し,1人1人の語りに光を当てる試みが見られるようになった(瀬尾2022)。他方で,近年の地理学や隣接分野では,身体やモノを通じて発露する感情やつながりが注目されるようになり(中島2014,2019),「大きな物語」に回収されやすい語りよりも,行為や感情,情動こそが,他者の苦難や恐怖に対する想像力を喚起することが議論されている(杉江2021).それでは,語りを通じた被災者へのアプローチは,1人1人の経験や感情を矮小化ないし抑圧し,記号化された「被災者」という他者表象を再生産することにつながってしまうのだろうか.本発表で検討する陸前高田における2つの場所の事例は,必ずしもそうではないことを示唆している.</p><p>語れない人びとのための哀悼の場所</p><p>震災後の数年間,陸前高田では家族を失った人たちですら語れない,感情のはけ口がない状況だった.それは,周りのほとんどの人が家族や親しい人を失っている中で,自分だけつらい気持ちを打ち明けることはできない,あるいは生活再建に追われる日々が続いたなど,理由はさまざまであるが,震災で失った人の死と,自らの感情に向き合う哀悼の場所がなかったというのも一因である.津波で流された市街地跡の更地は,震災前の生活の痕跡や死者とつながることができる場所だった(瀬尾2021).しかし,高田町や気仙町今泉地区では10~12mの嵩上げが国の復興事業として実施され,そうした場所さえも失われることになった(熊谷2022).こうした中で,陸前高田では私・共のレベルで大切な人を失った経験や感情を吐露できる哀悼の場所が(再)構築されていった.本発表で取り上げる事例は,米崎町の普門寺と,広田町の森の小舎である.</p><p>言語的・非言語的実践を通じた感情とつながりの発露</p><p>普門寺では,この地域において歴史的に災害後の被災者供養として行われてきた五百羅漢像を作成するプロジェクトが,アートセラピストであり心理学博士である佐藤氏の発案で行われた.犠牲者の遺族とともに全国から集まった参加者たちは,弾力性のある石を彫る行為を通じて,悲しみや怒りを石に打ち込んだ.さらに,五百羅漢像の開眼法要を通じて,石像にぶつけた悲しみや想いが浄化される形となった(佐藤2021).ここで注目されるのは,五百羅漢像の作成が,プロジェクト実施者や普門寺住職,参加者同士が互いに語り合い,自らの経験や感情を他者とともに言葉に紡ぎ,共有ないし分有する契機となったことである. 森の小舎では,そこでカフェを営んでいた赤川氏が,大切な人を失った人たちがその悲しみを語れる場所がなかったことから,そうした人たちが亡き人に向けて書いた手紙を受け取る漂流ポストを設置した.同ポストを訪れる人たちが決まってポストをなでながら亡き人に語りかける様子を見てきた赤川氏は,ポストの横になでやすい形状をした石碑を建て,手紙によく書かれている「あいたい」「抱きしめたい」という言葉を刻んだ.また,ポストに届いた手紙は基本的に森の小舎で誰でも読むことができる.それは,手紙を読んだ人が「自分と同じ気持ちだ」という感覚を持てるように,という赤川氏の願いからであった. これらの場所では,言語的実践と非言語的実践が互いを喚起し,人びとの経験や感情がモノだけでなく,言葉を通じても吐露され共有ないし分有されていた.このことは,そうした人びとに孤独な悲しみからの解放と連帯感をもたらしていた.本発表の事例は,語り,モノ,感情のいずれかではなく,相互の絡まり合いを見ることの重要性を示している.この絡まり合いに着目することで,私たちは被災者に対する想像力をより豊かにすることができるだろう.</p>

収録刊行物

詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390579078735072512
  • DOI
    10.14866/ajg.2023a.0_134
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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