啓に関する基礎的考察

DOI

書誌事項

タイトル別名
  • An fundamental study of the document form <i>kei</i>
  • Its introduction into ancient Japan and institutional development
  • 七・八世紀における受容と展開

抄録

本稿は、七・八世紀の日本における啓という文書様式について、史料中の「啓」という語句の分析を手懸りに、中国における啓との比較を通じて検討したものである。<br> まず日本の史料をみると、「啓」は『日本書紀』本文や風土記では天皇以外に、『書紀』分註や天寿国繡帳銘では天皇にのみに用いる語句であり、ここからそれぞれの成立時期における啓の機能に差違がみいだせる。 次に中国の啓は、六朝時代では公私問わず皇帝をも対象にできる汎用の上申文書(六朝的な啓)であり、唐代では皇帝以外に奉ずる文書(唐的な啓)であった。これにより、日本で天皇に「啓」を用いるのは六朝的な啓の影響で、天皇に「啓」を用いないのは唐的な啓の影響と考えられる。つまり、日本では六朝から唐的な啓へという転換が起きていたのである。また、東アジアにおける八世紀の啓をみると、啓は君主以外に奉ずる文書と言える。その機能に従って渤海は日本に啓を用いたが、日本は啓の機能を知りながら強引に渤海を朝貢国とする対応をとっており、日本の対渤海外交の方針が窺える。<br>  また、七世紀の文書木簡における啓は汎用の上申文書としての性格が窺え、これも六朝的な啓の影響が考えられる。啓は当時の状況に適した文書様式として受容され、文書行政を展開するための先駆的な役割を果たしていた。<br> このように七世紀は六朝的な啓が用いられていたが、大宝令施行によって唐的な啓への転換が起こり、公式令啓式条などにみえるように、啓は天皇以外に奉ずる文書となった。一方、公式令の範囲外では六朝の要素が残存しており、唐の啓と完全に同質となったわけでは無かった。とはいえ、啓の転換の結果、天皇に上申するための文書様式は、表・奏という天皇に上申するため「だけ」の文書様式となり、啓の転換は文書様式上における天皇の地位の可視化を意図していたと言えよう。

収録刊行物

  • 史学雑誌

    史学雑誌 131 (10), 1-23, 2022

    公益財団法人 史学会

詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390579322261895040
  • DOI
    10.24471/shigaku.131.10_1
  • ISSN
    24242616
    00182478
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

問題の指摘

ページトップへ