1912~1930年の大隅半島における中心地の形成

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  • Formation of centers in the Osumi peninsula from 1912 to 1930

抄録

<p>近代日本の特徴の一つに、急激な人口増加が挙げられる。明治元年からの約70年間に日本全体の人口は倍増した。この人口増加は、各地域で「財とサービスの供給地点=中心地」の出現をもたらした。前近代の時点で城下町や門前町などへの集積が顕著な地域では、概ねそれを継承した形での都市発展となることが多い一方、前近代で人口が希薄だった地域でも中心地は出現した。この場合は、前近代時点での集積の偏りが小さい分、新たに中心地の形成がなされたことになる。本研究の目的は、近代の急激な人口増加によって出現する、地域の中心地の立地形成要因の解明である。このためには、前近代時点での集積の面的な偏りが小さい地域を選択することが望ましい。本研究の対象地は、鹿児島県大隅半島(肝属郡・曾於郡)である。江戸期は薩摩藩に属し、「外城」(領内を区分し武士を分散配置させた統治拠点)が置かれた。大隅半島に22の外城が置かれたが、特定の外城への顕著な集積は見られず、中心地形成は近代以降に進行したとみられる。そのため、目的に合った対象地といえる。対象時期は1912~1930年である。大正期は日本の人口増加が著しい時期で、15年間で約1.20倍になり、地方でも人口増加と中心地形成がなされた。また現在の都市分布は、概ねこの時期の分布を継承しているため、この時期の分析は、現在の都市立地の成因の理解にも寄与できる。またこの時期は、全国的には工業化の発展時期でもあり、鉱工業の全国の生産額は1915~1930年で約2.30倍に増加し、第二次産業有業者数割合は1910年に16.9%だったものが、1920年に21.5%、1930年も20.8%となった。 大隅半島は、明治期でも人口は分散的だった。後に大隅の中心地となる鹿屋も、1925年までは半島内で2位の人口規模だった。ただ、地域全体としては人口が増加しており、例えば1912年から1920年の8年間で人口が約1.13倍に増加している。また、農業生産額は1912年から1926年で約2.41倍に増加した一方、農業人口は143180人から118932人に減少しており、農業生産性が向上している。工業に関しては、生産額は1914~1930年で約4.87倍だが、有業者数割合では、1920年、1930年ともに全町村で全国平均を下回っている。そのため、大隅半島の産業構造における第二次産業はそれほど大きなウエイトではなく、中心地形成でも工業化の要因は大きくないと考えられる。ここから、大隅半島には、大正期にかけて農業・工業ではない側面を持った中心地が出現することになる。 対象時期の人口分布の変遷をみると、大正期までは、半島中部と北部・南部の間には差がみられるが、突出した人口密度の町村は存在しない。1912~1925年までの人口密度の首位は東串良村であるが、中心性を有しているとは言いにくい。この期間に堅調に人口密度を増加させ、1930年に人口密度で首位となるのは鹿屋である。鹿屋は、商業機能や交通網、金融機関などの中心地的機能の集積が主に大正期に起こっている。ただ、銀行は高山や志布志にも支店が置かれ、志布志には中学校も置かれている。産業構造に着目すると、1920年時点の第三次産業従事者割合が高いのは鹿屋と志布志である。ここから、大隅半島の中心地になり得る地点は、鹿屋と志布志に絞られる。1930年国勢調査データをもとに、各町村の通勤・通学による人口増減をみると、鹿屋と志布志が人口を吸引している。ただ、通勤・通学圏が鹿屋と志布志の間で異なっている。鹿屋は、大隅半島中央部の多くの町村に加え、鹿児島市からの通勤・通学者もいた。一方志布志は、周辺町村と宮崎県からの通勤・通学であった。 このような違いが生じた理由としては、立地条件の違いが挙げられる。志布志の特徴は港湾機能を有していることであるが、大隅半島の東端という立地から、半島全体からのアクセスは高いとはいえない。一方鹿屋は、1887年に肝属郡役所が垂水から移転してきたことを契機に集積が始まる。明治中期までは鹿児島市と近接度の高い垂水に若干の集積が見られたが、明治後期から大正期に中心機能が鹿屋に置かれた背景には、半島全体の分散した人口分布を前提に、半島全体に商業機能や交通、医療・教育などの財とサービスを供給するためには、半島中央部に立地させることに加え、大隅半島は、半島中央部が比較的平坦なこともあり、中心機能を集積させるのに好適だったと考えられる。また、大隅鉄道の鹿屋―志布志間の開通は1935年であり、両者の中心地的発展は独立に進行したとみられる。以上から、志布志は九州南東部の港湾機能を担って発展した一方で、鹿屋は行政上の要因を契機として大隅半島全体の便益から中心地的な発展をしたと捉えられ、半島内の中心地が機能分化していると推定できる。</p>

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390581334683015936
  • DOI
    10.14866/ajg.2024s.0_285
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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