京都人文学園の形成と変容 --知識人・労働者による教育空間と社会運動の関係史--

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タイトル別名
  • The Formation and Transformation of Kyoto Jinbun Gakuen: History of the relationship between educational spaces and social movements
  • キョウト ジンブン ガクエン ノ ケイセイ ト ヘンヨウ : チシキジン ・ ロウドウシャ ニ ヨル キョウイク クウカン ト シャカイ ウンドウ ノ カンケイシ

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説明

本稿の目的は,講義の担い手や教育内容に着目しつつ,京都人文学園の形成と変容の過程を描くことである。同学園を含む「正規の」学校教育システム外に創られた「学校」の多くは,「教育」の変革を志向する思想(=<教育の文脈>) と,運動の担い手の養成などの社会運動の要請(=<運動の文脈>)との交差点上に形成されてきた。また<運動の文脈>は一枚岩ではなく,京都人文学園の場合には,住谷悦治ら労働組合や政党に基盤を置く知識人たち(=<労働・政治運動の文脈>)と,新村猛ら文学・美術評論などの文化批判に基盤を置く知識人たち(=<文化運動の文脈>)の合流と拡散のうえに学園が存続してきた。1946年に創立された京都人文学園は,住谷悦治ら「友山荘」グループと,新村猛ら『世界文化』グループの合流によって,昼間制の各種学校として誕生した。ただし創立直後に住谷悦治らが講義を行うことはなく,昼間制時代の京都人文学園では,新村猛らを中心に人文科学を基盤とした教育活動が展開された。いわば,<労働・政治運動の文脈>と<文化運動の文脈>が乖離し,<文化運動の文脈>に根差した教育活動が展開されたのが学園の昼間制時代であった(1946年10月-1949年3月)。しかし昼間制の学園は財政危機に陥り,夜間制への移行に踏み切ることになる。この移行によって,講師陣に二つの変化が生じた。一つは,新村と久野の就職=退場であり,もう一つは,京都地方労働組合協議会で活動していた知識人(住谷悦治も含まれる)の参入であった。夜間制への移行は,知識人の<運動の文脈>の内実が,<文化運動の文脈>から<労働・政治運動の文脈>へと重心を移していくという変化でもあった(1949年4月-1957年3月)。それでも財政難の克服には至らず,学園は京都勤労者教育協会との合併を決断する。同協会に参加していた知識人は夜間制京都人文学園と重なり合っており,この二度目の転機によっては,<運動の文脈>に大きな変化は生じなかった。(1957年3月)。

収録刊行物

  • 人文學報

    人文學報 122 49-76, 2024-06-20

    京都大學人文科學研究所

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