沖永良部島にみられる墓正月とそこから描かれる字の特性
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- 永迫 俊郎
- 鹿児島大学教育学部
書誌事項
- タイトル別名
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- New Year’s holidays in cemetery and its relation to characteristics of each local communities in Okinoerabu Island, Kagoshima Prefecture
説明
<p>はじめに お正月を家庭で共に過ごしたご先祖様を墓へお送りする墓正月は1月16日に行われ,沖縄本島のジュルクンチに相当する風習である.新生活運動などに伴って簡略化された字がほとんどながら,沖永良部島の3つの字(知名町田皆・瀬利覚,和泊町国頭)には‘座る’(=宴会を開く)慣例が残っている.鹿児島大のCOC事業で現地調査に伺ううちに,葬制も字の成り立ちに密接に関わっていることを知り,2017,18,19年の3回に渡り墓正月に参加させていただいた.琉球と薩摩それぞれによる支配を経験し,地理的には沖縄に近い沖永良部には,沖縄系を基調に奄美系と本土系の文化が根付いている.葬制をめぐっては,明治時代に入ってから出された禁止令まで風葬をしており,その後埋葬に変わっても洗骨する改葬が続いていた.こうしたお骨を拝む先祖崇拝が島の心である.今回は3つの字の墓正月の最近の実態を中心に,そこから描かれる字の特性について報告する.</p><p></p><p> </p><p></p><p>1月16日の墓正月 1969年の火葬場の設置を機に土葬から火葬へシフトし,いつからか不明ながらジュルクンチの呼称が墓正月に変容した.1月16日の墓参りはどの字でも行うが,字をあげて座る慣例が残るのは次の3集落のみで,時間差があるためハシゴ調査が可能である.</p><p></p><p>田皆:旧来の字では島内第2の人口を有し,字の南西側に整備された共同墓地がある.正午過ぎから1年間に亡くなった家庭を訪問するため,墓を共有する家族単位で座るのは午前10時前後からお昼前である.午前中の昇りゆく太陽の下ゴザを介して温もりが伝わる砂の上での宴会は,車両が通行できる道の両側に広がり,明るさや賑わいを感じられる.車座を囲む人数は多くて10数名,少なくて3-4名で,親戚や亡くなった家の墓をまわるなど流動性がある.ここでは,田皆小学校と田皆中学校の児童・生徒が墓を訪れるのが特徴的である.小学校は創意の授業と設定し,墓のある児童は自分の家族のもとへ,ない児童は担任に引率されて見学する.4つの小学校区からなる中学校では田皆に墓地がある生徒のみ加わる.</p><p></p><p>国頭:旧来の字で島内最大の人口で,農林水産省農林水産祭のむらづくり部門で平成4年に天皇杯を受賞するなど農業で沖永良部をリードする集落である.他の2集落が墓を共有する家族単位で墓正月を行うのに対して,ここは墓地の中のシマミシドーあるいは研修館で,1年間に亡くなった人の家族の中での希望者と字の役員が執り行う合同慰霊式である点が特徴である.シマミシドーは死者に字とお別れをさせる場所で,一般には墓地内部のちょっとしたスペースに位置する程度ながら,国頭では壁の無いお堂を設えて法要が営めるほどである.2017年には前年亡くなった21人中7家族が参加し,ワネアバカのシマミシドー(110名出席)で,2019年には前年亡くなった25人中9家族が参加し,研修館(115名出席)で,14時から2時間に渡って墓正月の合同慰霊式が行われた.参加者は黒い喪服で,僧侶や神主を欠くものの,本土での一般的な法事と類似した雰囲気である.</p><p></p><p>瀬利覚:旧来の字で島内第3の人口を有し,集落から南の海岸に下った砂丘上に立地する列状の墓地は島で一般的な形態である.1977年の沖永良部台風で一部被害を受けたものの,明治10-11年に集団墓地化する際に積み上げられた石灰岩の囲いが風情を漂わせている.15時半から16時過ぎにかけて,家族単位で墓へ向かい,墓地を共有する一族で宴会を行う.車座の人数は5-6名から最大では30名に達する.夕時ということで毎年BBQと決めている家もあり,日の入りや周りの家族の動向に気を配りながら,楽しい墓正月の宴は続く.墓正月とお盆の年2回家族と共に楽しい時間を過ごすことが,先祖崇拝やアイデンティティーの礎となっているに違いない.</p><p></p><p> </p><p></p><p>字の特性 隆起サンゴ礁からなる低い島である沖永良部島では,字の境界は小さな谷に過ぎない.その境界を越えて隣の字に行かないように,風葬墓は字境界の谷沿いにある洞穴に設けられていた.そこはヌンギドコロ(恐い所)と呼ばれ,現在でも頭蓋骨をはじめとした人骨が見られる風葬跡が至る所にある.カルスト地形からなる平坦な島で字の境界を明示していた風葬地は恐怖の対象でしかなかったが,明治以後の集団墓地は畏敬の対象へと変化したと評される.農業が盛んな沖永良部島は,奄美群島の中で真っ先に旧暦を捨て,伝統的な民俗行事もあまり残っていないのが実情である.そうした中で頑なに墓正月で座り続けている三つの字に共通するのは,字(シマ)意識の高さであり,琉球色が強く島を牽引する勢力(人口規模)を有している点である.</p>
収録刊行物
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- 日本地理学会発表要旨集
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日本地理学会発表要旨集 2019a (0), 84-, 2019
公益社団法人 日本地理学会
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詳細情報 詳細情報について
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- CRID
- 1390845702282644480
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- NII論文ID
- 130007711026
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- 本文言語コード
- ja
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- データソース種別
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- JaLC
- CiNii Articles
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- 抄録ライセンスフラグ
- 使用不可