風景のアーカイヴズ再考

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タイトル別名
  • Rethinking the archives of landscapes
  • マリアンヌ・ノース・ギャラリーと風景画
  • Marianne North Gallery and landscape paintings

抄録

本報告では,英国の王立キュー植物園に1882年に開館したマリアンヌ・ノース・ギャラリーを「風景のアーカイヴズ」(島津2007) と捉え,その含意を探りたい。ヴィクトリア時代の「レディ・トラベラー」(Middleton 1965) の一人マリアンヌ・ノース (1830-1890) が,自ら訪れ描いた五大陸の植物画627点とともに寄付したギャラリーは,今なお多くの来訪者や言説を吸引し続けているが,ここでは広義のテクストの集積・管理・供用に関わるアーカイヴズ機能に焦点を当てる。ノースの植物画は,1877年のサウスケンジントン博物館での最初の展覧会のカタログに「様々な国の植物と風景を描いた油彩画」(North 1877) と自ら記した如く,植物を主題としつつも,同じ英国人の植物学者レジナルド・ファラー (1880-1920) の如く生育環境を詳細に描き込んだり (橘 2006),近景や遠景を巧みに配したりして,風景画の特質を備えたものが多い。ノースは上記のカタログ作製の理由を,大抵の英国人は自然史に無頓着でココアの原料はココアナッツだと思っているから,と述べた (North 1892)。彼女はアマチュア科学者として (Morgan 1996),「英国民衆に地理学と自然史の教育を施すという大志」(Agnew 2011) を抱いていたのである。1879年のロンドン・コンディット街でのノースの個展を8月5日付で報じた夕刊紙Pall Mall Gazetteは,彼女のコレクションが王立キュー植物園にあれば良いのだがと記した。記事をみたノースは,知己のサンスクリット学者アーサー・コーク・バーネル (1840-1882) に宛てた8月9日付の手紙で,植物園長のジョセフ・ダルトン・フッカー卿 (1817-1911) が敷地を確保してくれたら絵画とギャラリーを寄付したいと書いた (Agnew 2011)。その2日後,ノースは園長に手紙を書き,彼は彼女の申し出を受託した (Payne 2016)。ノースの友人の建築史家ジェイムズ・ファーガソン (1808-1886) が,ギャラリーの設計・建設を担当した。コレクションは地理的区分に従って展示配置され,1885年には848点にまで増加した。ギャラリーのカタログは第6版まで刊行された。コレクションは「植物とその故郷」と命名され,フッカー卿はカタログの序文で「ここに集められた多数の風景画は,驚くほど興味深く珍しい光景…を生き生きと精確に描いている」と記した (Hemsley 1882)。さらに,王立地理学協会が1885年12月から翌年1月にかけて開催した「地理学教具展覧会」で,「世界の諸地域における光景」を描いたノースの多くの作品が「地理学的絵画」のコーナーに展示された(Royal Geographical Society 1886)。彼女の絵画は王立地理学協会に認められていたことになり,レディ・トラベラーが男権的な英国科学界で軽視されたとする理解 (井野瀬 2007) は再検討を要する。ノースが専ら自然を追求し現地民を描かなかったという理解 (Guelke & Morin 2001) も一面的で,彼女の絵画には現地民や人工物が度々登場する。植物画それ自体が,〈絵になる〉という審美的判断に媒介された文化的産物であり,彼女のギャラリーはローカルな文化としての風景の集積体=アーカイヴズに他ならない。風景のアーカイヴズは今やヴァーチャル世界に構築されつつあるが (例えばhttps://bogdankusevic.wixsite.com/photography),ノースのギャラリーは現実世界で風景を集積・管理・供用するグローバルなセンターであった。それは久保写真館 (島津 2007) が,同じ機能を有しつつも新宮に根ざしたローカルなセンターであったのとは,際立った対照を示すものであった。

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390845712970927488
  • NII論文ID
    130007411861
  • DOI
    10.14866/ajg.2018s.0_000023
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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