「満洲国軍」創設と「満系」軍官および 日系軍事顧問の出自・背景

書誌事項

タイトル別名
  • The founding of the “Manchukuo Army” and the origins and backgrounds of its “Manchurian” officers and Japanese military advisers
  • 「 マンシュウコクグン 」 ソウセツ ト 「 マンケイ 」 グンカン オヨビ ニッケイ グンジ コモン ノ シュツジ ・ ハイケイ

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説明

満洲事変においては関内撤退が困難となった張学良配下の多くの軍官が様々な利害関係から判断し、日本への帰順、満洲国への参加を選択した。その意味で満洲事変の民族的抵抗戦とは異なる軍閥戦的性格が改めて確認される。 満洲国において大臣や軍司令官など重職を担っていったのは日露戦時特別任務班出身者や陸軍士官学校(陸士)留学生など日本軍と日露戦争以来の繋がりがある人物であった。張作霖が奉天軍閥を形成していく中で、特別任務班出身者、陸士留学生は淘汰されずに生き延び、張作霖に重用され、軍内で一定の地位を築いた。張学良期になると、両者は自身の地位に不満を貯めている傾向にあった。そこに満洲事変が起こり、日本軍は武力を背景に両者を強引に再編していった。 一方、内モンゴル東部地域では特別任務班出身の巴布扎布(バボージャブ)が官職に就いたが、独立運動に従事し戦死していた。清国期には政府の警戒によってモンゴル族子弟は陸士留学が認められなかったが、その後、巴布扎布の息子甘珠爾扎布(カンジュルジャブ)らが陸士留学を果たした。関東軍は満洲事変で当初、彼らの内モンゴル自治軍の挙兵に期待した。しかし、日本が影響力を行使できる軍官の育成が進んでいない中で同軍のあり方は馬賊謀略方式とならざるを得ず、さしたる成果は挙げられなかった。ただし同軍の存在は王公などの運動参加へと繋がり、関東軍にとって満蒙謀略発動で課題となることが予想されたモンゴル族勢力と漢族勢力の調整を計算することが可能となった。 また特別任務班における馬賊監督官が同馬賊の清国官軍編入に合わせて応聘され、それが制度的に発展したのが東三省軍事顧問であった。満洲事変ではさらに満洲国軍事顧問へと発展し、満洲国軍を実質的に統制していく。ただし東三省軍事顧問は日露戦争を体験し中国人に連帯感を有していた陸軍「支那通」の第一世代が担っていたが、満洲国軍事顧問は満洲を客観視し武力を背景に理想を追求した第二、第三世代が担っていった。

収録刊行物

  • 史学雑誌

    史学雑誌 125 (9), 41-67, 2016

    公益財団法人 史学会

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