強調する教化活動の可能性

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タイトル別名
  • ー悲しみを癒すためのアプローチー

抄録

    大いなる海原に白い船が漂う。陽は高く紺碧の空から光を降りそそぐ。入り江の向こうには岬が連なり、その丘の辺には白い墓が遥かに見え、深紅の花が岩の間に咲いている。青い大海に白い波が立ち、その波音は水平線の彼方にまで響いていくようである。そんな光景を謳った混声合唱曲がある。堀田善衛作詞、團伊久磨作曲の「岬の墓」である。筆者が学生時代に出逢った作品だが、この合唱曲の光景が、平成 28 年の夏に訪れた伊豆で海を眺めながらふと蘇り、しばし思いに耽り、気が付けば口ずさんでいた。海が見える丘にある墓。この墓には誰が眠り、今もここにあるのか?……と。<br>  そして、八木重吉作詞、多田武彦作曲の男声合唱組曲「雨」の中、最後に「雨」という小曲がある。<br>   雨のおとが きこえる<br>      雨が降っていたのだ。<br>   あのおとのようにそっと<br>      世のためにはたらいていよう。<br>   雨があがるように<br>      しずかに死んでゆこう。<br> たった 6 行の詩である。自然の只中でくり返される生の営み。生きとし生けるものの営みはその一つ一つが尊く、そのいのちはかけがえのないものである。しかし、その小さな生の営みは、大自然の中で数限りなく存在し、それが幾重にも積み重なってゆく。だから、くり返される無数のいのちの営みには何の意味も遺りはしないように、つい思えてしまう。<br>  ところで、我々寺院のより所となる「無上甚深微妙の法」を受け継ぐ存在にとっては、人の死と埋葬・墓地の問題はこの現代社会において最も切実であろう。特に檀信徒の死の報を伝えられた瞬間より、葬送儀礼に意を尽くす使命を負うことになる。これまでに「散骨」「樹木葬」から「直葬」さらにはネットによる「葬送儀礼の値付け」「派遣僧侶」など。およそこの四半世紀足らずで、葬送儀礼と埋骨の事情は「あっ」という間に劇的に様変わりした。ただ、劇的に様変わりしたと感じるのは、寺檀関係や死生観に無頓着なまま、今この状況を迎えている寺院の側の事情である。「葬式は要らない」を冠した冊子を目にして、ただ苛立ち怒るだけの僧侶たちの理由なき嘆きとも言える。そして、それは仏教の幾多の祖師、先徳のおこぼれを頂いてきた成れの果てとも言えるだろう。果実は熟れて地に堕ち、しかし、それは大地の恵みとなり、自然の循環に寄与できるのか。寺院の本質的な役割と新しい寺檀関係の構築は、ここに至って、今まさに転換期の最終章にある。

収録刊行物

  • 智山学報

    智山学報 66 (0), 1-18, 2017

    智山勧学会

詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390845713013436288
  • DOI
    10.18963/chisangakuho.66.0_1
  • ISSN
    2424130X
    02865661
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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