「神々の闘い」の時代に、鷗外の『寒山拾得』を読む

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タイトル別名
  • Reading Ōgai Mori's <i>Kanzan-jittoku</i> in the Age of Religious Conflict
  • 「 カミガミ ノ タタカイ 」 ノ ジダイ ニ 、 オウガイ ノ 『 カンザン シュウトク 』 オ ヨム

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抄録

<p>『寒山拾得』は絶大な権力を持つ新任の地方長官閭丘胤が「痩せて身すぼらしい小男」の寒山と拾得のことを文殊と普賢だと聞かされていたため、大仰で丁重なあいさつをし、二人に手ひどく拒絶される話です。〈語り手〉は閭丘胤の「盲目の尊敬」では何もならぬと言いますが、しかし、何故、「盲目の尊敬」では何もならないのでしょうか。この作品をお話のレベルで読むのでは、これに応えることは出来ません。すなわち、〈近代小説〉をお話=物語の表層のレベルで読むのでなく、そうさせている世界観認識、世界解釈を読む、これがわたくしの立場です。と言って、事態は極めて難解です。</p><p>『附寒山拾得縁起』の末尾には「実はパパァも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」とあり、もし拝む人がいれば、「パパァ」も「文殊」=「仏」になるのだと言っているかに見えてそうではありません。パパァは宮崎虎之助さんとは違います。拝む人がいても、いなくても、「パパァも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」と言っているのです。捉えている客体の対象は主体によって決定されるのではないからです。そうであれば、「盲目の尊敬」である閭丘胤も否定されることはありませんでした。</p><p>では、客体そのものを誰が捉えられるでしょう。客体そのものは未来永劫、永遠に沈黙したまま、誰も捉えられないのです。だから、ナンデモアリの相対主義、アナーキズムになるしかないのではないか、と言われれば、そう見えて、これを否定せざるを得ません。その論理は唐突ですが、「イスラム国」の攻撃を排除できないからです。自身が直接身近に攻撃されれば、誰でもその論理の過ちに気付きます。「神々の闘い」を目の前にして考えましょう。この『寒山拾得』の〈語り〉はそうした二元論を斥け、「盲目の尊敬」を唾棄しているのです。</p><p>どの学問芸術、宗教も深く読んで考えると、その主客相関の〈向こう〉に「道」がある、『寒山拾得』の〈語り手〉はそう言っているとわたくしは読みます。これを語る方便(物語)の底に「道」を語る〈語り〉が働いています。</p><p>鷗外の〈近代小説〉はむしろポスト・ポストモダン、〈明治〉と刺し違える程に殉じ、責任を負っていたのですが、『寒山拾得』はその置き土産、仕上げのようなものです。</p><p>念の為に言っておきましょう、ここで言うモダンは捉えた客体の〈向こう〉に実体がある実体論、ポストモダンはこの実体を斥けた関係論、ポスト・ポストモダンは両者を斥けた第三項論です。「道」とは私見では〈宿命の創造〉のことです。</p>

収録刊行物

  • 日本文学

    日本文学 64 (8), 2-14, 2015-08-10

    日本文学協会

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