<論説>教部省教化政策の転回と挫折 : 「教育と宗教の分離」を中心として

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  • 谷川 穣
    京都大学大学院文学研究科博士後期課程

書誌事項

タイトル別名
  • <Articles>What is the Significance of the Public Indoctrination Policy by Kyobu-Sho? : In View of its Relation to School Education
  • 教部省教化政策の転回と挫折--「教育と宗教の分離」を中心として
  • キョウブショウ キョウカ セイサク ノ テンカイ ト ザセツ キョウイク ト シュウキョウ ノ ブンリ オ チュウシン ト シテ

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抄録

明治初年、教部省は神官・僧侶を総動員しての壮大な民衆教化政策を企図した。本稿はその展開と挫折の過程を、当時の重要な論点でありながら先行研究が看過してきた、学校教育とのかかわりという観点から考察する。三島通庸を中心とする教化政策に、重要な転回をもたらしたのは、田中不二麿らの「教育と宗教の分離」理念であった。これにより、学校教育への教化政策組み込みは失敗し、教化の路線も変容してゆく。だがそれは島地黙雷の激しい批判にあい、教化政策は挫折するに至った。その島地も、教化政策を批判してゆくうちに、僧侶が初等教育を担当すべきだという自説を放棄することになる。教部省と島地に即して言うなら、この過程は近代日本社会における「分離」理念受容の出発点であった。そして「近代国民国家」の重要な民衆統合回路たる学校教育をめぐり、宗教勢力がほとんど介在してこないという近代日本の特質が形成される、その大きな契機であったと意義づけられよう。

収録刊行物

  • 史林

    史林 83 (6), 977-1009, 2000-11-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

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