<論説>契丹・宋間の澶淵体制における国境 (特集 : 国境)

書誌事項

タイトル別名
  • <Articles>The Border between Khitan and Song under the Chanyuan Treaty System (Special Issue : FRONTIERS, BOUNDARIES, BORDERS, AND LIMITS)
  • 契丹・宋間の[セン]淵体制における国境
  • ケイタン ソウ カン ノ センエン タイセイ ニ オケル コッキョウ

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説明

一〇〇四年の澶淵の盟締結により、契丹・宋の二国は、対等な関係で共存するようになった。両国国境は太行山脈を境に東部は平原、西部は山岳地帯と地理条件を異にしたが、すべての国境ははっきりと定まっているものと考えられていた。一〇七〇年代の西部国境の画定交渉を経て、界壕が掘られ標識が立てられ、ほとんどすべての国境線は可視化された。和平維持のために国境管理は重視され、盟約の規定により人の越境移動は建前上厳しく制限されていた。ところが、実際には、定期的な使節団や権場で交易する商人、両属戸などが公的に越境を認められていたし、それ以外にも密貿易に従事する商人をはじめとして数多くの国法を犯す越境者がいた。以上の検討を通じ、通説においてヨーロッパの主権国家登場以後に現れるとされてきた、それぞれの国家の統治のおよぶ領域が国境線によって明確に分割されるという現象が、一一世紀のユーラシア東方でもみられたことが明らかとなった。

収録刊行物

  • 史林

    史林 90 (1), 28-61, 2007-01-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

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