「藝術空間」としての日中戦争期における中ソ文化協会

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  • 漆 麟
    中国・西南大学美術学院准教授

書誌事項

タイトル別名
  • Sino-Soviet Cultural Association : A Modern "Art Space" during the Second Sino-Japanese War in Chongqing
  • 「 ゲイジュツ クウカン 」 ト シテ ノ ニッチュウ センソウキ ニ オケル チュウソ ブンカ キョウカイ

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説明

中ソ文化協会(中国・ソ連文化協会)は1935年10月に南京で設立され, 中国とソ連との文化交流や外交的な役割を果たした。中華民国政府と関わりながらも, 民間が運営する半官製の組織であった。日中戦争期の1938年7月に重慶に移設された中ソ文化協会は, 多彩な美術活動ないし文化活動を通して戦時首都における最も重要な展示会場または文藝活動の拠点となっていた。しかし, これまでの歴史的言説は, 中ソ文化協会は中国共産党(主に南方局)がリードする文化活動の拠点であり, 協会の文化活動はソ連またはそのイデオロギーの代理である中国共産党による政治的立場やイデオロギーを反映, あるいはそれに寄与するものだと論じてきた。美術研究の領域では, 中ソ文化協会は革命と抗戦を宣伝する木版画・漫画の展示拠点であり, ソ連との美術交流を担っていた組織であったと書かれている。本論は, 戦時中の中ソ文化協会における美術活動の実態を調査し, その運営による文化的アイデンティティの創出, さらに重慶市内の文化地理的空間における位置づけについて考察する。それにより, 中ソ文化協会が重慶の二大展示会場の一つとしていかに形成されたかを論じる。また, 中ソ文化協会で開催された美術展は, 宣伝美術のみならず, 水墨画・洋画などの異なるジャンルにまたがり, むしろ前者は少数派であったことを明らかにする。それにより, 中ソ文化協会の実態は, 中国共産党が主導する特定の政治的立場を持つ作家群の活動場所であった, という先行研究の書かれ方と相反することを検証する。こうした事例研究を通して, 先行研究における極めてイデオロギー化された中ソ文化協会をめぐる言説を改め, 文化藝術の自律性およびその立体的な構造を浮かび上がらせる。美術館も博物館もなかった時代の戦時首都において, 自主的な文化・経済活動および近代的な運営を行った中ソ文化協会は, 今日の視点からみて, 複合文化施設という性格を持つ近代的「藝術空間」であったと言うことができよう。

収録刊行物

  • 人文學報

    人文學報 115 1-25, 2020-06-30

    京都大學人文科學研究所

参考文献 (29)*注記

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