宝力丸の漂流一件と越前海浦の廻船業

書誌事項

タイトル別名
  • ホウリキマル ノ ヒョウリュウ イッケン ト エチゼン ウミウラ ノ カイセンギョウ
  • On the case with regard to the drift of Hourikimaru (宝力丸) and Shipping business of Umiura (海浦) in Echizen (越前)

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説明

文政9年(1826)に中国へ漂流した越前国丹生郡下海浦の廻船宝力丸については,廻船と乗組員の所在地の町史『越前町史』や福井県の小林巖氏らに加えて,同船に乗り合わせた船員の出身地能登の研究者佃和雄氏や,富山県の浅畑尚親氏により取り上げられている。近世の漂流研究に取り組まれた川合彦充氏や荒川秀俊氏が作成した漂流年表にも当然に記載されているために,この漂流はよく知られた一件である。 宝力丸の漂流についての概略はこれまでの研究にて明らかにされているといっても,その航海の目的でさえ厳密に検討されていたとはいえなかった。そこで数多くの関係史料を集めて史料批判した上で,宝力丸の航海とその漂流の実態を解明しなければならない。これまで宝力丸関係史料の収集に努めてきたが,これらの史料の大半は漂流関係史料となった。そこでこれらの史料をもとにして宝力丸の漂流にいたった航海が昆布を薩摩へ売却する航海であったか否か,その航海の目的を初めとするその具体的な実態を本稿で明らかにしたいと考える。そして,その際になぜ薩摩への昆布販売の航海とする史料と大坂への航海とする史料とに二つに分かれてしまうのか,この点についても考えてみたいと思う。さらに,このような航海を行う宝力丸という廻船の廻船主を考えることが当然に必要になるので,この廻船を出した海浦の海運業の展開と廻船主について初めに検討したうえで,前記の課題について取りあげたい。その場合に,同じ越前海岸に位置して明治期に北陸の代表的な北前船主である右近家と中村家を出した河野村の廻船業展開と同期に彼らのような北前船主を出せなかった下海浦村の廻船業展開の特徴を比較しながら検討してみたい。

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