戦前期日本におけるフェンシングの躍進 : 法政大学とフェンシング協会の活動に着目して

書誌事項

タイトル別名
  • Development of Fencing in Pre-War Japan : Looking back on history with a focus on Hosei University and the Japanese Fencing Federation
  • センゼンキ ニホン ニ オケル フェンシング ノ ヤクシン : ホウセイ ダイガク ト フェンシング キョウカイ ノ カツドウ ニ チャクモク シテ

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法政大学体育会40団体(準加盟を含む)のうち、その6割以上が1920~30年代に創立されている。なかでもフェンシング部は1935年、全国に先駆けて「法政大学フェンシング倶楽部」として発足した。当時学生の渋谷忠三が同級生や教授たちに声をかけてクラブを立ち上げ、彼らは日本におけるフェンシングの躍進にも深く関わった。しかしながら、もともと競技人口の少ないスポーツであるためか、フェンシング部の歴史については学内でも注目されることが少なかった。 そこで、本稿は法政大学関係者やフェンシング協会の活動に着目しながら、戦前期日本におけるフェンシングの躍進についてまとめた。その過程には学生や教員たちの存在があり、「幻の東京オリンピック」と称される1940年東京大会との関係性を抜きに語ることはできない。法大および協会側の歴史については学内刊行物や部誌、関係者の回想を用い、協会役員が勤務していた新聞社の記事も参照した。また、オリンピックについては豊富な先行研究に依拠しつつ、組織委員会の報告書を参考に、フェンシングに焦点を当てて整理した。 渋谷たちの活躍は母校にとどまらなかった。卒業後、自分の会社を事務局にして、慶応義塾大学関係者たちと「大日本アマチュア・フェンシング協会」を発足させ、オリンピック初出場を目標に掲げて競技の普及に尽力した。フェンシングがオリンピック東京大会(1940年)の公式競技から除外される危機を回避できたのはIOCラトゥール会長を含む国内外の関係者による復活運動の結実であった。戦争が進むにつれて、かねてより日本剣道の存在を脅かす競技として認識されていたフェンシングは排撃の対象となったが、敗戦後、復員して来たメンバーが復活を成し遂げた。 最後に、フェンシングの復活を見ることなく渋谷が戦死したことは以前より知られていたが、今回、陸軍大将河辺正三の日記を読み解き、戦死の状況が明らかになった。

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