覚鑁の真如論――『五輪九字明秘密釈』を中心に――

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  • Kakuban’s Views on the Suchness:An Analysis of the <i>Gorin kuji myō himitsu shaku</i>
  • Kakuban's Views on the Suchness : An Analysis of the Gorin kuji myo himitsu shaku

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抄録

<p> 本稿では,覚鑁『五輪九字明秘密釈』第一章「択法権実同趣門」で展開される真如論を検討し,同書第二章「正入秘密真言門」に記載される五蔵曼荼羅の教理背景を新たな視座から考察する.</p><p> 最初に五蔵曼荼羅について概説すると,中国古代の医学,科学,哲学,および密教のそれぞれで使用される「五部法門」(五仏,五智,五輪,五行,五臓等)の水平的結合と総括される.同五蔵曼荼羅の教理背景としては,これまで即身成仏からの影響が強調されてきた.事実「正入秘密真言門」では,空海が,五蔵曼荼羅を観想することで現身に五智を顕現したという説話が紹介され,本瞑想は,即座に三摩地を現前させる優れた実践と主張される.</p><p> このように五蔵曼荼羅と即身成仏の関連は間違いないが,覚鑁の主張を詳細に見ると,それ以外にも同曼荼羅の背景と思われる教説が確認される.それが真如論である.先ず「正入秘密真言門」では,五大(=五輪),五智,五臓が相互に結びつく基盤として,色,心,空の不二相即関係が紹介される.実は,これと類似の議論が「択法権実同趣門」の中で,真如論として展開されるのである.</p><p> 覚鑁の主張を総合すると,以下の通りである.そもそも顕教では,唯一の理と無数の事が対立的に捉えられるが,密教は,両者を別であり不二とも理解する.同じく顕教では,唯一の理が無数の色の根源と捉えられるが,密教は,それら色がそのまま理と把握する.従って,顕教は無量の真如(=理)を認めず,唯一の真如だけを主張する.一方,密教は,無数の色と相即する重々無量の真如を認め,その証得を主張する.</p><p> 結論として,これら真如に関する密教の議論も,五蔵曼荼羅が組織される際の重要な背景であったと考えられる.</p>

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