国家メディア戦略「文化映画」への広告の接近 : 第二次世界大戦期の原弘と板垣鷹穂の言説と制作に着目して

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タイトル別名
  • Approaching the national media strategy of "cultural films" in advertising : the discourse and production of Hiromu Hara and Takao Itagaki during the World War II era
  • コッカ メディア センリャク ブンカ エイガ エノ コウコク ノ セッキン : ダイニジ セカイ タイセンキ ノ ハラ ヒロム ト イタガキ タカオ ノ ゲンセツ ト セイサク ニ チャクモク シテ
  • コッカ メディア センリャク 「 ブンカ エイガ 」 エ ノ コウコク ノ セッキン : ダイニジ セカイ タイセンキ ノ ゲン ヒロシ ト イタガキ タカ ホ ノ ゲンセツ ト セイサク ニ チャクモク シテ
  • 国家メディア戦略文化映画への広告の接近 : 第二次世界大戦期の原弘と板垣鷹穂の言説と制作に着目して

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説明

本稿の目的は,1930年代における視覚情報伝達メディアとしての映画の伸張の過程を,二人の芸術分野の主導者らの言説と制作物に着目して明らかにすることにある。1937年のパリ万博日本館で写真壁画を制作したデザイナー原弘は,同時期に公開された国家的な映画に強い関心を寄せ,広告映画制作への意欲を表明していた。国家の諮問委員の立場にあった美術評論家,板垣鷹穂は,1939年に施行された「映画法」により強制上映が義務付けられた「文化映画」に「宣伝映画」を含める指針を示した。両者には,絵具や写真と同様に映画を芸術的表現によって情報を伝達する手段として捉える姿勢が共通していた。彼らには娯楽劇映画とは異なる視覚情報伝達メディアとしての映画の可能性への強い期待があった。国家メディア戦略である「文化映画」に「宣伝映画」が組み込まれたことで,1940年前後に広告・宣伝映画にかかる議論は活発化した。これらはそれ以前にあった,企業による映画巡回興行での広告映画制作の経験を,戦後のテレビ広告の制作につなぐ試行となったと考えられる。

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