七〜八世紀における新羅の「築城」記事にみる防衛体制の推移 ―日本古代山城の変化と国際的背景の関係についての試論―

抄録

本稿は、新羅の「築城」記事を分析することで、七世紀から八世紀にかけての新羅の防衛体制とその変化について明らかにするものである。この分析を通じて、当時の東アジアの国際情勢と新羅の防衛体制がどのように関連しているのかを整理できるだろう。また、新羅の「築城」記事と防衛体制を検討することは、同時期に築造された、鞠智城をはじめとした、日本の古代山城を理解するうえにも有益であると考えられる。 『三国史記』新羅本紀にみられる七~八世紀の「築城」記事は、当時の国際情勢に応じた新羅の防衛体制に基づく軍事拠点建設を示している。対百済戦争、対唐戦争終結後の新羅の主たる戦略的関心が北方に移っていたことが看取でき、新羅が実際に倭への軍事的作戦を実行する可能性が低かったことを意味する。六九八年代の「繕治」は、新羅に対する防衛戦略とは別の目的で行われたものとみなすべきであろう。 本稿では、「築城」記事を網羅的に分析するという意図のもと、城そのものの役割・機能については、地理上の位置関係など、軍事的な機能の一部について論じたに過ぎない。城が多様な機能を有していたことを考慮すると、新羅の祭祀制度や地方制度と関連させて議論することが必要になるだろう。

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