Historical Development of Vegetable Seed Production Areas in the Shimousa Plateau

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  • 下総台地における野菜種子生産の史的展開

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<p>1.はじめに</p><p> 日本では,近現代を通じて都市化の進展に伴い各地で野菜産地が形成され,地理学においてもその研究が蓄積されてきた.しかしながら,野菜生産の前提条件としての種子生産の実態に関する研究は,いまだに少ない状況にある(清水2009).大正期から昭和戦前期においては,近郊野菜産地を中心に栽培品種の採種から発展した産地自給型の種子産地に加え,野菜採種に特化した大規模な販売種子生産型の種子産地の成立もみられた.本報告では,後者の代表的産地と位置づけられる千葉県北部の下総台地における野菜種子生産の史的展開について,種苗業者に残る史料群(八街市・高橋宏一家文書)と各種統計資料の分析をもとに,通時的に検討することを目的とする.</p><p></p><p>2.下総台地の地域特性</p><p> 下総台地は,関東ローム層に覆われた標高20~40mの平坦な台地である.江戸時代には軍馬の育成を目的とした広大な放牧場(野牧)が広がっていた.明治政府は,1869(明治2)年以降,東京の豪商に下総開墾会社を組織させ,士族授産と荒蕪地(牧)の開墾を推進した.下総台地のほぼ中央部に位置する八街は,この当時に成立した開墾地(東京新田)のひとつであるが,寒暖差が大きく水の便も悪い台地の開墾は困難をきわめ,開墾の当初は入植農家の離散や逃亡が絶えなかった.</p><p></p><p>3.八街における野菜種子産地の成立</p><p> 高橋松之助は1895(明治28)年に東京府北多摩郡三鷹村(現・三鷹市)から,千葉県山武郡日向村(現・八街市)へ入植し,1899年から北豊島郡滝野川村(現・北区)の種苗問屋から譲り受けた「滝野川牛蒡」の原種をもとに採種業を興した.八街産のゴボウ種子は滝野川の種苗問屋において好評であったことから,高橋は周辺地域での委託採種によって採種面積を拡大するとともに,自身でも改良をかさねて固定性の高い原種(八街改良種)の育成,販路の開拓を図った.野菜種子は八街における有力な商品作物となった.松原(1911)によれば,1909(明治42)年における八街産野菜種子の県外出荷量は,ゴボウ,ダイコン,ニンジンを中心に約900石にのぼり,そのうち全出荷量のうち63%を東京府(種苗問屋)が占め,残りの27%は関東甲信越および近畿地方などへ出荷された.東京以外の諸県へはゴボウの出荷割合が高く,とりわけ近畿地方への「滝野川牛蒡」の普及に大きな役割を果たした.明治の末から大正期にかけて,高橋松之助(丸松種苗)に加え,八街では浅見染次郎,三里塚(現・成田市)では渋谷栄一をはじめとする種苗業者の創業がつづき(高橋2015),八街を中心とした印旛・香取・山武3郡は,大正から昭和戦前期にかけて,北海道石狩地方や愛知県西部地方,福岡県筑後地方などとともに,日本有数の野菜種子産地に成長した.</p><p></p><p>4.戦後における野菜種子生産の実態</p><p> 2023年6月,丸松種苗に残る終戦直後から高度経済成長期にかけての史料群(高橋宏一家文書)を整理・撮影する機会を得た.同史料群のうち特にまとまったものは,戦時中の企業合同の流れをくむ千葉種苗株式会社の1948年度における仕入・販売高に関する台帳と,1949~63年の各年における丸松種苗の委託採種について記録した「原種台帳」である.前者からは下総台地を中心として生産された野菜種子の仕向地と販売額,後者からは丸松種苗の委託採種地域が印旛・香取・山武3郡に加え,茨城県稲敷郡域にまで広がっていたことや,期間を通して採種栽培面積が減少傾向にあったことなどが判明する.</p><p></p><p>〔主要参考文献〕</p><p>・松原滋 1911. 千葉県印旛郡八街村に於ける蔬菜種子. 日本園芸雑誌 23-9:14-18.</p><p>・清水克志 2009. 近代日本における野菜種子流通の展開とその特質. 歴史地理学 51-5:1-22.</p><p>・高橋宏一 2015. 千葉県における種苗業のあゆみ. 種苗界 76-9:23-28.</p>

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