書誌事項
- タイトル別名
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- Argument About the Terminology Problem of "Mental Deficiency" in 1992.
説明
知的ハンディキャップを持つ人を、どう呼称するかは、現在に至るまで議論が途絶えることが無い。それは、どのような「用語」を用いても変わらない。本研究では、筆者の師である伊藤隆二教授が提唱している「『障害児』(障害者)から『啓発児』(啓発者)へ」の思想を研究の出発点とする。近江学園の創立者・糸賀一雄氏は「この子らを世の光に」と言われたが、伊藤教授は、それを更に進めて「この子らは世の光なり」と主張される。なぜ「この子らは世の光なり」なのか、また、なぜ「障害児」(障害者)ではなく「啓発児」(啓発者)なのか、ということを本研究は解き明かしたい。その際、今までは、1992年に特に集中した「精神薄弱」用語問題に関する議論を中心に考察を進めてきた。今回は、その後の動向として二つの法律を中心に考察を行った。その二つの法律とは「精神薄弱の用語の整理のための関係法律の一部を改正する法律」(1998 年)と「発達障害者支援法」(2004 年)である。様々な議論が交わされた結果、「精神薄弱」という用語は廃止され、「知的障害」となった。また新たな「発達障害」という用語も登場し、その定義を巡っては現在まで議論が続いている。そして本稿の最後には今までの一連の論文のまとめとして、筆者の師である伊藤隆二教授の「障害児」「障害者」を廃し「啓発児」「啓発者」と呼ぼう、すなわち「この子らは世の光なり」の教育思想をキリスト教の視点から再び考察した。その結果、知的ハンディキャップのある「この子ら」「この人ら」は、その「弱さ」ゆえに神に選ばれた存在であり、その「弱さ」ゆえに神の光を、そのまま受け容れ、自らが「世の光」となる。「この子ら」「この人ら」の光を身に受けた眼の前が曇っていた「強者」の内、目覚めた者は、己の至らなさを自覚し、正しくものを見ることに覚醒し、自ら低きに視点を移して正しく生きるようになる。そのような人が一人でも増える社会が達成されれば、「この子ら」「この人ら」は「障害児」「障害者」ではなく「啓発児」「啓発者」と呼ばれるのが相応しいということになることがわかった。
収録刊行物
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- 広島国際大学 教職教室 教育論叢
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広島国際大学 教職教室 教育論叢 (15), 1-20, 2023-12
広島国際大学 教職教室
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詳細情報 詳細情報について
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- CRID
- 1390866647405812352
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- ISSN
- 18849482
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- 本文言語コード
- ja
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- 資料種別
- departmental bulletin paper
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- データソース種別
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- JaLC
- IRDB
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- 抄録ライセンスフラグ
- 使用可