1940年代のルイセンコ論争をめぐる西側の学術論文 : 4つの観点からみた学術論文の構造化
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- 齋藤,宏文
- 東京工業大学
書誌事項
- タイトル別名
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- THE LYSENKO CONTROVERSY IN THE ARTICLES IN WESTERN JOURNALS AND MAGAZINES OF THE 1940s : Classification of the Articles According to Four Approaches
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説明
第二次世界大戦後からNature誌やscience誌を中心に、T.D.ルイセンコの遺伝学説をはじめ旧ソ連遺伝学界の動向をめぐり数多くの論文が掲載された。論争初期においては英米の遺伝学者が主導となり、純粋に生物学的な議論を固持していた。1948年8月の農業科学アカデミー総会後にルイセンコが旧ソ連遺伝学界を掌握すると、各誌上では専門分野を越えて、旧ソ連政府に対する政治的批判を含む白熱した論争が展開された。先行研究をみると、遺伝学者や生物学者の対応に対象が限られ、ルイセンコ論争を包括的に捉える試みは十分とはいえなかった。とりわけ、生物学以外の科学者や人文社会科学系の知識人の反応は顧慮されることは少なく、論争史の大きな不備となっていた。人文社会科学系知識人による各論文の姿勢を検討してみると、専門外ゆえの非科学的な言説がみられるとはいえ、考慮に値すべき点もないわけではない。ルイセンコ論争を契機とした科学の自由をめぐる洞察や科学の国家統制の是非、社会との関係を論ずる新しい視点が提起されていた。一方で、ルイセンコ論争をめぐって各論文が専門学術誌以外にも多数掲載されたことが、論争史研究を混乱させる原因となっていた。本稿では論文の体系的な整理をめざし、記録史料学で用いられている「史料のレベル化」の方法を踏まえ、以下の四つの視点から各論文を構造化してみた。第一に論文の掲載時期、第二に学術雑誌の系統・種類、第三に論文が掲載された欄、第四に著者の姿勢、である。とりわけ、第三の視点を設けることにより、学術雑誌の書評欄や討論欄、通信欄が論争において特別な役割を果たしていたことが明らかとなった。構造化を通じてルイセンコ論争をめぐる論文群の全体構造が示され、論争に加わった論者の様々な姿勢とその変容過程が把握できた。ルイセンコ論争は単に遺伝学説の科学的是非を争ったものでなく、ましてやイデオロギー闘争に終始した不毛な論争でもなく、1940年代の科学と社会をめぐる輻輳した論争だったのである。
収録刊行物
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- Japanese Slavic and East European studies
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Japanese Slavic and East European studies 26 1-22, 2006-03-31
Japanese Society for Slavic and East European Studies
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詳細情報 詳細情報について
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- CRID
- 1540009770408015616
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- NII論文ID
- 110004757926
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- NII書誌ID
- AA10457722
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- 本文言語コード
- en
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- データソース種別
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- NDLデジコレ(旧NII-ELS)
- CiNii Articles