鎌倉時代の守護所

抄録

鎌倉時代の守護は一般に文治元年(=八五)十一月の勅許によって認められ、各国に守護を配置することになった。ただしその権限は大犯三ケ条に限られたので、守護の所在地である守護所は夫々の国において独立した機関所在地となるよりは、むしろ国衙機能の一つである「所」としておかれたのが多いとみられる。だが承久の変によって京方の勢力が削減され、代って守護の権限が拡大されて中末期頃から領域支配をするようになると事情は変化する。守護が国衙在庁と機構を吸収して一国の政治支配を始め、守護所が国衙から独立した所在地となることも考えられるからである。そしてこの守護所の中には、その後の南北朝・室町さらに戦国時代に至るまで一貫して権力機関の所在地となる例もみえている。しかもそこが単なる権力城館地だけにとどまらず、漸次城下を付属させるようになるから、守護所を地方における中世政治都市の萌芽、つまり城下町の起源として位置づけることは可能である。個々の場合でみると連続しない場合は多いが、守護権力の所在地ということでつかむと、守護所を古代の地方都市国府をつぐものとみてよい。ただ中世都市となる時期は国によって差があり、鎌倉中末期を中心に鎌倉全期という範囲でみなければならないだろう。ところで史料となる文献・遺構・遺物・地名などの残り具合いからみると、国府と守護所にはかなり差がある。守護所を証拠だてる史料は極めて少ないのである。手掛りをつかみうる近世以降の地誌などにも国府関係の寺社・地名・伝承などはあるのに、守護所のそれらは格段に少ない。その理由には幾っかあろう。たとえば史料を残した文筆関与者の姿勢にもよるだろうし、あるいは守護所が軍事優先のために初めこそ国府に拠ったが、間もなく移動し、そのために記されなかったことがあるかも知れない。しかし史料に多少があるからといって、夫々の時代に果した役割に質的な差があるとは思えない。国府・守護所ともに権カ所在地である以上、一国支配を有効に発揮させるため政治・軍事・経済・宗教などの諸機能を集中しているのは当然である。したがって守護所が古代都市国府の発展上にあり、一国支配の権力拠点となったことを否定する理由はない。この点をあらかじめ念頭におきつつ、以下各国において個々の守護所の所在地を確かめて行くことにしたい。

収録刊行物

  • 奈良史学

    奈良史学 (7), 1-23, 1989-12

    奈良大学史学会

詳細情報 詳細情報について

問題の指摘

ページトップへ