アリストテレスの『政治学』における共同体と統治─知識人の人間観ならびに社会観(5)─

書誌事項

タイトル別名
  • On Community and Reign in Άριστοτέληςʼs『Πολιτικά』─High-Brow Views with Human Nature and Social Relationship (5)─

抄録

本稿では,人間が政治的動物であると捉えているアリストテレスによる社会觀やその統治に関する見解を概観し,彼が社会をどのように捉え,その社会で人間(市民)がどのように社会を運営しうるのかについてのアリストテレスの社会観あるいは人間觀を理解することを目的にしている。アリストテレスの『政治学』が西ヨーロッパの知識人に知られるようになったのは,この著作がギリシャ語からラテン語に邦訳された13 世紀後半であろうと推察される。アリストテレスの政治論が知られる前の世界では,'君主の鑑'に関する支配者觀が説かれる著作が多かったと言われている。君主の鑑(君主の模範,理想的な君主)として説かれたのは,旧約聖書で取り上げられているダヴィデ,ソロモン,ヨシュアなどの王や,モーセなどの指導者であった。君主の鑑に関する著作では,国家(すなわち「キリスト教社会」)としての身体にあっては,君主をその頭とするが,しかし,その君主は聖職者(キリストあるいはキリストの代理者)に導かれると説かれていた。この見解は,プラトンの『国家論』において積極的に説かれた哲人国王制論を継承するものであった¹。そこでは,人間の身体が魂に支配されるように,国家としての身体は聖職者(キリストあるいはキリストの代理者)によって指導されると説明された。 アリストテレスの『政治学』の影響を受けたヨーロッパの中世の知識人は,「神の国」と「地上の国」の相克にあるこの世の真の幸福がこの世を超越した所で達成されると説くアウグスティヌスの世界観ではなく,政治的動物としての人間には,国家(政治体制,あるいは国制)が必要不可欠であり,その現世において人間(市民)の幸福が達成される世界観(政治思想)を形成するようになった,と考えられる。アリストテレスの『政治学』の影響の下で執筆された『君主の統治について─ 謹んでキプロス王に捧げる─ 』において,アクィナスは,君主の職務として最大のものとして,共通善(公共善,すなわち共通の利益)の実現を示している。この共通善を実現するのが君主であり,私的な利益のために行動し公共善を蔑ろにする者は僭主であると規定している。その著作では,この公共善を実現する君主の徳性が説かれている。またエラスムスの『キリスト者の君主の教育』においては,君主(あるいは王)が一人で支配する国家をプラトンと同様に理想として,君主は公共善(市民の幸福)を実現するように全身全霊を尽くすことを説いている。エラスムスは,このことを実現する王にはどのような気質を備えあれているのが必須であるか,またそのような気質をもった王を如何に育むかとういう君主の教育論を展開している。アクィナスもエラスムスも,多少,実際の僭主には言及してはいるが,しかし,マキャヴェルリの言うよう²な,現実の新しい君主(必ずしも共通善を実現することを職務としない君主)の行動を分析してはいない。どちらかというと,アクィナスの君主統治論もエラスムスの君主論も,君主の鑑,すなわち君主としての雛形,模範,モデル,更には君主の気概(気質)を示し,現実の王(統治者)に反省を促し,現世の王を理想の王に育てる教科書(道徳書)の域を完全には脱してはいない。 本稿は,中世ヨーロッパの知識人が支配者として暗黙に前提とした君主による支配(政治)体制のみならず,近代社会(フランス革命以後の社会)では常識になっている民主制をも含めた政治体制(国制)について考察する。その際に,国を構成する市民(国民)が生活する条件(経済的条件)を充たし,その上で,善く生きるために国家をなすと想定する。この稿では,アリストテレスの『政治学』を典拠として支配体制の有り様を考察する。 本稿は,二つの節から構成される。第1節では,共同体とその類型について考察するが,その1.1 では共同体について,家段階での獲得術(あるいは生産技術)と自足均衡,村段階での獲得術(あるいは生産技術)と自足均衡そしてポリス段階での獲得術(あるいは生産技術)と自足均衡,1.2 では共同体の二つの類例について概観する。第2節では,共同体での統治について考察するが,2.1 では,共同体統治の意味,すなわち,家の統治,家政術,獲得術,取財術:不健全な取財術が考察され,2.2 では,国民と国制について調べるが,古代ギリシャにおける国民の範囲,善き国民の徳は善き人間の徳に一致するか,国民と国制の関係,国制は一つかそれとも多数あるか,国とはどのようなものか,主権者はだれか,支配者(統治者)になるのは誰,そして統治者の問題について検討する。----------------------------------------¹ プラトン著(藤沢令夫訳)『国家(上)』383C(192 ページ1から2行目)において, プラトンは「いやしくもわれわれの国の守護者たちが,神々の畏敬する人となり,人間 として可能なかぎり神々に似た者となるべきである」と述べている。プラトンの哲人王 制に関する詳細な展開は,彼の『国家(上)』第5巻第17章から第18章において展開 されている。  プラトンは,支配者や守護者に私有財産の所有を禁止し,共同所有制を適用した。そ の417B(286 ページ7から11行目)において「彼らがみずから私有の土地や,家屋 や,貨幣を所有するようになるときは,彼らは国の守護者であることをやめて,家産の 管理者や農夫となり,他の国民たちのために戦う味方であることをやめて,他の国民た ちの敵としての主人となり,かくて憎み憎まれ,謀り謀られながら,全生涯を送ること になるであろう─外からの敵よりもずっと多くの国内の敵を,ずっとつよく恐れなが ら」とある。プラトンは守護者・支配者の私有財産所有を禁止しているが,農民が私有 財産を所有することを禁止してはいない。² マキャヴェルリ著(大岩 誠訳)『君主論』第25章(111 ページ9から10行目)に, 「それに今まで大ぜいのひとたちは,現実に存在するのをただの一度も見たことも聞い たこともないような共和国や君主国を空想したものである。ところが現にひとの営む生 活の仕方は当然守らなければならぬ生活の仕方との間には大きな隔たりがあるから,ま さになすべきことのために現になされていることをすてて顧みない人間は,その身を固 まらぬうちに早くもその破滅を招くものだ」と述べ,彼は一度も現実にあらわれたこと のない国制ではなく,現に目の前の君主制の分析を行っている。マキャヴェルリの方法 論はアリストテレスの方法論に通じるものがある。論文

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