「スポーツする身体」と「教える/学ぶ身体」の交わるところ

書誌事項

タイトル別名
  • Violence at the Crossing Point of “Bodies for Sport” and “Bodies for Teaching/Learning” :
  • 「スポーツする身体」と「教える/学ぶ身体」の交わるところ : 学校運動部における「体罰」をめぐって
  • 「 スポーツ スル シンタイ 」 ト 「 オシエル/マナブ シンタイ 」 ノ マジワル トコロ : ガッコウ ウンドウブ ニ オケル 「 タイバツ 」 オ メグッテ
  • ―学校運動部における「体罰」をめぐって―
  • On Physical Punishment concerning Sport Instruction at School

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抄録

「スポーツと体罰」という本稿のテーマは、「スポーツを教える/学ぶ空間」における「スポーツを教える身体」から「スポーツを学ぶ身体」への暴力、といいかえることができる。ここには、「スポーツする身体」と暴力という問題系と「教える/学ぶ身体」と暴力という問題系のふたつが重層しているだろう。本稿はこのふたつの問題系をいったん切り離して、前者についてはノルベルト・エリアスによる「文明化」理論に基づく議論を、後者についてはグレゴリー・ベイトソンによる「学習」と「ダブル・バインド」についての議論を参照して検討し、その後この両者を結びつけて考えたい。 <br> 本稿は、文楽の人形遣いの名人・吉田文五郎が語る芸の伝承の事例を軸にしながら、とくにベイトソンがいう「学習Ⅲ」を生む「治療的ダブル・バインド」の状況に着目する。「学ぶ身体」が従来の「学習Ⅱ」では成功できず、新しい習慣に跳躍しなければならないこの状況において、「教える身体」もダブル・バインドに晒されている。また、そこで「学ぶ身体」が身につけるべき「スポーツする身体」は、スポーツと暴力をめぐる構造的なダブル・バインドのなかに置かれている。こうした困難さのなかで、「スポーツを教える身体」が暴力をふるうことがあるだろう。そして、多くの「学ぶ身体」は「学習Ⅲ」に飛び移ることに失敗する。この「敗者たち」を遇する文化を「スポーツを教える/学ぶ空間」がいかに蓄積してきたか、これをどう育てうるかが、「スポーツと体罰」というテーマにとって重要な課題となるだろう。

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