<論説>元代知識人と科挙

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タイトル別名
  • <Articles>Intellectuals in the Yuan (元) Dynasty and the K'o chu (科拳)

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説明

十三世紀、モンゴル人が北中国の地を征服した時、モンゴル政権の内部に、強烈なモンゴル至上主義をふりかざす一派に対して、漢人および漢文化を保護しようとする文化主義の一派があつた。この文化主義派の中にも、二つの動きがあつた。一は荒廃した漢文化を復興しようとするものであり、他は新統治者たるモンゴル人を漢文化に習熟させようとする啓蒙的な動きである。前者の動きの表われが、耶律楚材が主動者となつて一二三八年に行われた戊戌の選試である。この選試は一度きりで終つたが、学者を保護し、学校を建てなどして、伝統的な漢文化の復興者の役割を果したのは、北中国の有力者でモンゴル政権に投降したいわゆる漢人世侯であつた。第二の動きは、道学の流れを汲むもので、許衡をその代表的人物とし、世祖フビライの信任を得て、モンゴル人の子弟を道学的に教育することに力を尽した。科挙に対する態度でも、両者は全く違つていた。即ち前渚は積極酌であるに対し、後者は消極的であつた。

収録刊行物

  • 史林

    史林 42 (6), 885-924, 1959-11-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

キーワード

詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390009224848641408
  • NII論文ID
    120006818226
  • NII書誌ID
    AN00119179
  • DOI
    10.14989/shirin_42_885
  • HANDLE
    2433/249455
  • ISSN
    03869369
  • 本文言語コード
    ja
  • 資料種別
    journal article
  • データソース種別
    • JaLC
    • IRDB
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用可

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