共生、あるいはすれ違うこと : ドゥルーズの『襞—ライプニッツとバロック』を手がかりにした考察

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書誌事項

タイトル別名
  • On Kyosei, or the Possibility to Cross: An Essay Based on Deleuze’s The Fold: Leibniz and Baroque
  • キョウセイ アルイハ スレチガウ コト ドゥルーズ ノ ヒダ ライプニッツ バロック ヲ テガカリ ニシタ コウサツ

抄録

論文

共生とは何か。この概念はしばしば実現されるべき理念として問題にされる。たしかに、今日の社会にはさまざまな問題点があり、その解決に向かって行動し、言説を形成する必要がある。とはいえ、共生はつねに実現していると言うこともできる。私たちは、現に、誰かと共に生きているからである。この事実はあまりに自明であるがゆえに、あまり問題にされてこなかったように思われる。しかし、共生にかんする議論が錯綜する今こそ、私たちにとっての事実に目を向ける必要があるのではないだろうか。 こうした問題関心から、本稿では、ミニマルな共生について考察する。すなわち、理念的な共生ではなく、現に実現している最小限の共生についてである。そのために、私たちはライプニッツ哲学に着目し、そこから、ドゥルーズの『襞』におけるライプニッツ解釈に基づきつつ、二つの共生を引き出す。本稿では、まず、「モナドには窓がない」という有名な定式が示すような、個体間の直接的なコミュニケーションを認めないライプニッツのモナドロジーについて確認する。ついで、ドゥルーズの『襞』を参照し、ライプニッツに忠実な仕方で、共生の意味について考える。そのうえで、ドゥルーズが『襞』で提示する「新しいライプニッツ主義」の謂いを明らかにし、別のかたちでの共生について考察する。

収録刊行物

  • 未来共創

    未来共創 9 5-32, 2022-03-31

    大阪大学人間科学研究科附属未来共創センター

詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390292859803264768
  • DOI
    10.18910/88546
  • ISSN
    24358010
  • HANDLE
    11094/88546
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
    • IRDB

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